新沈黙を破る 48

木村天山

 9月25日は、藤岡の命(みこと)上がりの日である。

 あれから一年を経た。

 感慨無量である。

 私は、今でも、藤岡の転落したマンションに住んでいる。

 夜、時々、ベランダに出ることがある。藤岡のつかんだ手摺りを見る。

 

 私は強い人間であるから、過去を棄てることなく、ここにいる。

 さて、人に非ず、人で無しは、今でも多くいる。

 藤岡の同門が、お参りに来たこともない。クラシック仲間が、お参りに来たことは無い。 不思議である。

 実に不思議である。

 礼儀作法が失われて久しいが、ここまで酷いとは思わなかった。

 一人として人間を信じてはいけない。そう子供に教える親の気持ちが解る。

 

 舞台に出る人間というものは、特にクラシック関係の人間は人間であることを棄てている。だから、舞台に出られるのであろう。

 そして妄想の霊感もどきの者共である。藤岡が枕元に立つという勘違いである。

 辟易する。私を誰だと思っているのだろうか。

 心にやましいことがあるから、自分で作り出す藤岡の姿を、藤岡だと思い込む哀れさである。

 藤岡は幽霊になっていない。幽体を棄てている。霊体になっているのである。その証拠に、私は藤岡を見たことがない。毎日、一緒に生活していた私が見ないのである。幽霊で活動しているはずがない。

 本当に、馬鹿アホ、間抜けである。女に多い。女は、救われない。この世に問題があるとしたなら、すべて女が原因である。

 女が女の愚かさに気づかないというのが、この世の真実である。

 だから、私は女が嫌いである。

 すると、女は激怒する。私が言う女とは、男の中にもある。人間は男と女を同時に二つもつ。これは真実である。生物学的に男と女であるが、精神を見ると、人間は男と女を二つ持つのである。

 それが高尚になると、父性と母性を二つ持つということである。何も心理学を持ち出すまでのことはない。あの薄い歴史の心理学を学問だと信じているアホが多いが、それでは、仏教の理屈屋が見つけた人間の心理は、もっと深く凄い。

 

 人間は、この三次元を生きることに必死で、他の次元を想像することはしない。まだ社会に染まっていない子供のころは、多次元を意識するが、大人といわれて感性を鈍化させたら、もう多次元の世界は無いものである。

 科学的ではないと言っても、その科学は、いつまでも仮説を立てているままである。

 10年前の栄養学と今の栄養学が、いかに違うか。10年前の医学と、今の医学が、いかに違うか。

 

 私には、一年を過ぎたが、藤岡に取っては、一日程度の時間の感覚であろう。

 多次元の世界は、今が昨日であり明日なのである。

 藤岡の遺骨の前で祝詞を上げる。その空しさと言ったらない。

 祝詞は生きている人にこそ、上げたいものである。

 神になったというと、藤岡を神格化していると言うアホもいる。日本で神とは、尊称であることを知らない。

 様とか殿とかと同じなのである。

 レリジュンという言葉を宗教と訳したのは、日米通商条約の時である。日本に、宗教という言葉はなかった。宗旨という言葉はあった。仏教の団体を分ける意味での言葉である。それ以後、欧米の宗教を理解して、神道を宗教と考えたところから、誤りが生じた。欧米の言う、極悪非道の神という概念、観念を持って、日本人が言う神を、解釈した。

 本当に学者と言う者共は愚かである。

 あちらの神と、日本の神という言葉を一緒にして、日本の神観念は、多神教であり、云々と馬鹿なことを言い始めた。しまいには、精霊信仰、アニミズム云々と、おかしなことを言う。

 日本には、欧米の言う極悪非道の神観念は無い。

 

 神と呼ぶ素晴らしい人々がいたのである。それらの人々を尊敬して神と呼んだ。

 この宇宙に充満するのは、秩序と法則であり、一なる神など、仏など無い。有る訳が無い。皆、人間が考え出した、それも支配するための観念である。神がいれば都合が良いのだ。西洋史を見れば一目瞭然である。

 

 藤岡は、多次元の世界にいて、私を観ている。

 人を生かすのは、その眼である。

 先祖供養で恐れるのは、その先祖の眼である。

 いか生きているのかを観る先祖の眼である。それに耐えられるか。先祖供養がウソであることが解る。先祖が祟るという前に、自分が先祖を祟っていることを知ること、それが信仰である。

 仏陀は一言も先祖供養を口にしなかった。する必要がないからである。

 生きること。先祖の眼を知って生きること。それを悟りと言う。

 宇宙の真理を体得して、神と合一、仏と合一することが悟りだとは笑わせる。妄想である。妄想に始終して、何千年を経ても、解らない。死んだ方が増しである。