新沈黙を破る 52

木村天山

 コペルニクス地動説を受け継いだのが、ガリレオ・ガリレイである。

 ガリレオは、木星の衛星、土星の輪を発見したことでも有名である。

 彼の科学史における最大の貢献は、落体の法則の発見である。ピサの斜塔の実験がそうだ。落体の法則とは、物体が地上に落下するまでの運動を支配する法則である。

 「自然運動により通過された距離は時間の自乗に比例する。したがって、等しい時間に通過された距離は一ではじまる奇数である。この命題の原理となるのは、自然に運動している物体は、運動のはじまった地点からの距離に比例して、その速度を増大する」

 ガリレオは、アリストテレスの自然観を批判して、数学を応用する道を拓いた。

 批判の精神は、発展の精神である。

 批判されることを恐れることはない。批判されない方が、社会的に死ぬということであり、学問の世界では、批判されるということは価値があるということである。

 批判されることで、悩乱錯乱し、我を忘れて人に当たる者に聞かせたい話である。

 誰も相手にしなくなった時、それはこの世での死を意味する。生きていても、死んでいることなのである。

 おわかりか、愚か者。

 ガリレオは、宗教裁判にて地動説を否定された。その時「それでも地球は回っている」と言ったといわれる。後に、ヨハネ・パウロ2世によって、その判決を解かれたが、それにしても長い間、教会は地動説を認めなかった。

 宗教裁判である。仰天する。

 如何に、教会という存在が強大な力と権力を持っていたか。学問の世界へも、異端として退けるという仰天である。

 今でも、進化論を認めないというキリスト教原理主義がある。原理主義というのがくせ者である。イスラムなどは、原理主義と言うと、戦争を聖戦として認識する恐ろしい集団である。

 こちらが正しい、あちらは間違っているという、実に単細胞的発想と行為である。許容範囲を持たない原理主義によって、一度世界は滅びるであろう。自業自得である。

 

 さて、いよいよルネッサンスの哲学者の真打ちの登場である。

 「コギト・エルゴ・スム」「我思うゆえに、我あり」

 複雑奇怪な中世の思想を、あっさりと単純化したデカルトである。

 「私は私がなんであるかを注意深く吟味し、次のことを認めた。すなわち、私は、私が身体をもたず、世界というものも存在せず、私のいる場所というものもないと仮定することはできるが、しかし、だからといって、私が存在せぬと仮定することはできず、それどころか反対に、私が他のものの真理性を疑おうと考えること自体から、きわめて明証的にきわめて確実に、私があるということが帰結する、ということ。逆にまた、もし私がただ考えることだけをやめたとしたら、たとえそれまで私が想像したすべての他のものが真であったとしても、だからといって私がその間存在していたと信ずべきなんの理由もない、ということ。すなわち、私は一つの実体であって、その本質あるいは本性はただ、考えるということ以外のなにものでもなく、存在するためにはなんらの場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、ということ。したがって、この「私」というもの。すなわち、私をして私たらしめているところの「精神」は、物体から全然分かたれているものであり、さらにまた、精神は物体よりも認識しやすいものであり、たとえ物体が存在せぬとしても、精神は、それがあるところのものであろう、ということ。」方法序説

 デカルトは、感じている私に気づくことも、自分が感じていることを明晰に考える、直感することであった。それは、考えている、感じている自分を「考える」ことが、「コギト」なのである。

 見事であろう。

 考えたもの、定義したものを覆すことに恐れを感じる。しかし、それを経なければ、成長も発展もない。

 アリストテレスの著作を踏み付けたデカルトは、私の言葉に直せば、

 あんたの見たもの、そして、それらを考える前に、大切なことがあるだろう。お前だよ、お前の存在だよ。誰が考えて感じて、観察してんの。お前だよ、お前。それを明晰に意識することからだ、すてべてのことは、

 となる。

 もう一つおまけに、

 最後は神に帰結するなよ。神に帰結すれば、それを言っちゃあ、おしまいだよ、本当。

 と言うことになる。

 実に、私は説明不足であることを、認めつつ、話を進めることにする。

 これは哲学講座ではなく、音楽史なのである。

 もう一つおまけに余計なことを書くと、「存在するためになんらの場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない」という言葉は、私の霊学にも言えるのである。

 その前に「その本質、あるいは本性はただ、考えるということ以外のなにものでもなく」とある。霊学もそうなのである。

 霊とはただ、考える、つまり行為するということ以外のなにものでもなく、ということになる。場所も、物質にも依存しない。考える、つまり思念である。思も思い、念も思いである。それは行為になる。霊の思念は、即行為になる。

 愛せば愛の行為に、憎めば憎みの行為に即成るのである。

 人間は霊的存在である。肉体を抜き棄てた時から、霊体として活動する。肉体があっても霊的行為は、思念として成る。(幽体は、一時的なものである。霊体を棄てる前に、この世の思いを清算する状態を言う。幽霊は、この時の姿である。)