新沈黙を破る 53
木村天山
近代を拓いたデカルトは、中世の曖昧模糊、精神と物との混沌を、明確に切り離して考えたところである。
精神は、思惟すること、すなはち考えることであり、物は、延長にありとする。
この延長という考え方が、デカルトの最大のテーマであった。
「たとえば形は延長ある事物のうちにおいてのみ、また運動というものも延長ある空間のうちでしか考えられない。それと同じように、想像や、感覚や、意志も思惟する事物においてしか考えられない。ところが、それと正反対に、延長は形や連動がなくても考えられるし、思惟は想像や感覚がなくても考えられるのである」哲学の原理
延長は、拡がりをもつことである。こけだれでは、何となく解らないので、私の言葉にすると、一つの物事に多くの意味をみることなく、一つで良いということ。「もの」とは、物体であり、それは目の前にある物の形状のみのことであり、それ以外に意味はない。
例えば、それに霊が憑いているとか、人の思いが憑いているとかは、考えない。物は単純に物である。これが延長の思想である。
日本語の「もの」という言葉も、ある時は物体であり、ある時は心の思いや、魂を持つものであり、ある時は、行動の原理であったりする。「もの」の定義が広い。
デカルトは、延長の思想によって、精神と自然という相対立する単純な原理を持つことになっといえる。
自然が「もの」となり、精神が、この「もの」から自由な、純粋な精神となったのである。それが近代の始まりであった。
延長とは、物体の長さ、広さ、深さ、という形で空間の中に存在するということである。それのみ。それ以外の何物でもない。
ここでアリストテレス、及び、スコラ哲学の言葉の世界は、言葉遊びとされる。言葉の海の中で、溺れるという意識である。
驚くなかれ、スコラ哲学者たちは、天使の数についての議論をした。彼らはアリストテレスに真似て、存在するものを形相と質料の組み合わせで考えた。しかし天使が質料を持つはずがない。同じ諸々の固体の差をつくるのは質料である。ゆえに、天使は一種類につき、一人しか存在しない。つまり、天使が何人も出てくる中性の絵画は哲学的に誤りであるということ。実に、面倒な議論である。
ちなみに、デカルトは、私の嫌いな幾何学の創始者でもある。それまでは、ユークリッドから始まった。定義と論証によるものだったが、デカルトは、座標軸を考え出した。形あるものを、二組の量、X座標とY座標で表せるようになった。
これは音楽史である。こういう哲学の思想が、音楽に、どのような影響を与えたかである。つまり、音楽の、多元化である。
多元化とは、単純なものが、沢山あると考えるとよい。
中世の音楽のように、一つに焦点を絞ることが出来ないということである。
中世は福音宣教のによる教会支配の音楽であった。しかし音楽が単純化されて、皆それぞれのものになった。
ここで音楽史は幅広くなり、次第に大河となってゆく。
中世は、あまりにも解っていることが少なかった。今、解ることが多くなった。それはつまり、教会支配からの解放でもあった。
神のみが人生にあるのではない。様々なものが、楽しみに満ちてある。そしてそれを享受してもいいのだという思いが、ルネサンスである。
音楽ジャンルが多様化し始める。当然である。
16世紀の音楽の最大の特徴は、器楽曲が大量に書かれたということである。
チェンバロの前身ヴァージナル、リュート、オルガンのための作品。
中世からルネサンス前半は声楽が主であったが、器楽音楽への移行が、この時から始まる。それはバロックへと向かうのである。
そしてバロックが花開くためには、イタリア語による世俗的な歌詞による合唱曲、「マドリガーレ」と呼ばれる声楽のジャンルの流行である。極めて前衛的な音楽ジャンルであるといえる。
ただし16世紀については、歴史をもっと見る必要がある。
文芸復興、人間中心主義としてのルネサンス期は、実は、宗教改革と宗教戦争への突入の時期でもある。
誰もが、服従したカトリック教会に対して、何と、内部から、教会に対決する者が現れるのである。
そして異端として裁いていた教会が、人々によって裁かれ、それを不服とした教会が、またカトリック派の人々が、新派に戦いを挑むという、そろそろ始まった、唯一神を持つ宗教の本性が丸出しになるのである。
同じ神を奉じても、戦い合うという事実が、見事に理解出来る。宗教戦争とは、キリスト教徒同士によって成されるという仰天である。