新沈黙を破る 60
木村天山
もう一つ、歴史的である。これも宗教戦争が元での、オランダの独立である。
15世紀半ばに、スペイン領となっていた、ネーデルラント(オランダ・ベルギー)は貿易で栄え、スペインの財宝と言われる程だった。
国王フェリペ2世は、アメリカに輸出する毛織物を管理下におくため、軍隊を駐留させて異端審問を行い、カトリックを強制した。
重税を課すとともに、6年間でカルヴァン派を8000人近く殺害した。
それにより抵抗勢力がネーデルラント独立戦争を起こす。
戦争が始まると、国外に逃亡していたカルヴァン派は、ゼーゴセインつまり、海の乞食団を結成してスペインの銀船を襲った。
戦争が長期化すると、スペインはネーデルラントの分断と懐柔を余儀なくされた。その結果、カトリックの多い、南部10州が戦争から脱落する。しかし、ユトレヒト同盟を結んだ北部7州は戦いを続け、1581年、ネーデルラント連邦共和国の独立を宣言した。 それ以後、オランダは東インド会社、西インド会社を設立して世界的貿易に乗り出した。 17世紀になると、アムステルダムは世界の商業、金融の中心となる。
オランダ人は、16世紀末から、アジア貿易に乗り出して、1602年、世界初の株式会社会東インド会社を設立して、香料の産地モルッカ諸島や、日本に進出したのである。1619年、ジャワ島の現在のジャカルタを拠点として植民地を築き上げた。
日本からは、大量の銀を輸入したのである。
その頃の日本は、1600年、関ヶ原の戦いである。
さて、日本は鎖国政策をしいたというが、実は、江戸幕府は、盛んに国際交流と貿易を行っていた。
オランダ、中国、朝鮮、琉球である。日本が輸出した銅はヨーロッパ経済に影響をあたえ、東南アジアでは、通貨として流通した。また、日本にも多くの商品が輸入された。
8代将軍吉宗の頃には、さらに輸入が緩和されて、漢訳された書物、ペルシャ馬、ベトナム象、ラクダなども持ち込まれたのである。
ここで問題なのは、最後まで長崎の出島でオランダだけが、ヨーロッパの国として貿易を許されたことである。
学者や歴史家は、オランダの陰謀により、ポルトガル、イスパニアの貿易を禁止したというが、彼らは、貿易とカトリックの布教をセットで持ち込んだ。
つまり、ローマカトリックの、法王の属国として日本を扱うという感覚があったということである。事実であろう。そういうことを平気で考えるのが、カトリックである。支配する地域を広げるために、イエズス会も活躍した。
それを、プロテスタントのオランダが、幕府に伝えたのであろう。
オランダは、貿易のみを主とした。布教が主ではない。
オランダの申し出がなければ、ローマカトリックの属国にされけていたのかもしれない。ローマの法王に従うことを持って、日本国王となるというように。とんでもない、策略である。
島原の乱は、そういう中で起こった農民一揆である。それにキリシタンが関わったことで、一揆の性格が宗教一揆に考えられたが、実際は、農民一揆である。
これについては、私の小説、天草四郎に書いてある。
鎖国は、日本人の海外渡航は禁止されて、交流する国も特定されていたが、不便ではなかった。雁字搦めの鎖国ではない。オランダとの交易で十分に満たされていたといえる。