新沈黙を破る 62

木村天山

 1600年、バロック音楽の幕開けに相応しい、今日残されている限りでの、最古のオペラ、ヤコポ・ペーリの「エウリディチェ」が上演された。

 時あたかも、日本は、関ヶ原の戦いの年である。

 バロックの最後を飾るのは、ヨハン・セバスチャン・バッハの死である、1750年。 150年間の歴史あるバロック音楽である。

 藤岡宣男が、「エノリディーチェを失って」というアリアを練習していたのを、よく聴いていた。非常に印象的な曲だった。そして、私が初めて聴く、オペラ物だった。

 その後、藤岡に勧められて、何度かオペラを観た。テレビでも観た。

 疲れた。

 雄叫びや、絶叫で辟易した。

 勿論、言葉は解らない。私には、遠いオペラの世界だった。

 ただし、否定はしない。あちらの国の大衆芸能であるという意識である。そしてそれは、正しかった。嫌なものを無理して聴くことはない。私は、藤岡が歌うアリアのみを、楽しいと聴いた。それで良かった。

 あんなものを聴いていると、耳が馬鹿になる。私に取ってはである。

 またそれを、日本人が真似ているという仰天である。

 見栄えのしない、冴えない連中が、西洋人に真似て、何するものぞという。

 しまいに、日本語オペラである。全く、日本語に聴こえないという仰天を平然とする彼らに、私は、呆れた。

 猿芝居より劣るということを知らない。知らないことを知らない。つまり、これを絶望的と言う。

 絶望的であることを、平然と成しているという、その感覚麻痺は、日本の西洋音楽の指導者の、才の無さを見せつけた。誰も、本当は解っていずに、西洋のものは素晴らしいと信じ込んで、指導した。つまり、信じたのであり、信じる者は、騙される。

 感動しなければ、笑われると皆思い込み、感動した、感動したと言い合う。

 これを、喜劇と言う。

 日本のクラシック音楽は、今持って絶望的である。

 例えば、ピアノ。あれは耳を破壊する。日本人の耳は、野蛮な西洋人と、全く意を異にする。鳥の囀りを、心地よいと聴く日本人である。川のせせらぎ、風の音。微かな響きを善しとする、日本人の耳である。

 ピアノは、あまりにも野蛮な音である。

 不自然な、叩きつける音を聴いて、感動するという、その人の感性を疑う。

 あれは人殺しを平気でする者の音楽である。

 ただし、私も聴く。好きな人の演奏のみである。それは、数学としての音楽の有り様を理解するという意味でである。

 ピアノに関する評論家や、ピアノ弾きの、ピアノに関する寝ぼけたような話しは聞かない。

 下手くそなピアノ弾きが、調律がなっていないから、演奏がどうのという。自分が下手であることを知らないで、のうのうと言う。たとえ調律しても、下手くそなピアノ弾きが弾けば、ピアノの音が狂う。調律などしてもしなくても、はなから、下手なのだから、万事休すである。それを知らない。

 霊学を知らないと、そういうことになる。物にも思いがある。ピアノも思いがある。勘違いの下手くそが弾けば、ピアノは狂う。当然である。ピアノが受け入れていないのである。この話が理解出来ない人は、音楽など、止めるべきである。

 ピアノに思いがある、そんな馬鹿なと考える人は、即刻、ピアノなど弾かない方が身のためである。死んでも、よい音は出ない、出せない。

 そしてピアノ曲は、数学である。再度、ピタゴラスへ戻って、考え直した方がよい。

 勿論、西洋音楽は、数学である。

 さて、これから長くバロック音楽について、私の独断と偏見にて、紹介する。

 音楽学者でない私は、実に、有意義に、音楽史を語ることが出来る。これ、素人の強みである。

 はっきり言うが、素人に、プロが適わないことがある。素人の強みである。

 素人には、筋道などない。手前勝手に、考えたことを言う。これを強みと言わずして、何を強みと言うのか。

 私が納得する演奏をしてみよ。素人を満足させる演奏をしてみよ。

 コンクールなどの審査員の馬鹿さ加減を見れば、一目瞭然である。彼らには、審査をする資格も才覚もない。何せ、音それ自体を知らない。審査の基準は、弟子、縁ある者、体を預けた者、つまり、セックスをしてくれた応募者等々、または、お金を貰う。

 あれが、厳正な審査か。私は、大いに笑う。

 この世に、厳正な審査などない。ある訳がない。皆、人間がしていることである。人間を信じることが出来るか。信じることが出来ないから、こうして、愚昧、暗黒の歴史を繰り返しているのである。

 再度、私は笑う。