新沈黙を破る 65

木村天山

 バロック音楽の最大の特徴は、通奏低音である。別名、数字付き低音とも言う。

 上と下の、外声部が優位を占め、その二つの緊張関係に、低音が入る。それも自由にである。和弦の指示さえ守れば、付加の形は無限大に自由にあるということである。

 曲の作り様が、真ん中の内声部が薄くなるといった形である。

 まさに、真珠に似る。歪んだ真珠という、バロックの語源を思い出して欲しい。

 曲の作り方は、ポリフォニーであり、ホモフォニーでもある。ホモフォニーとは、同質の響きという意味である。つまり、上声部の旋律が優位を占め、和弦の支えがあること。そして下の緒声部の旋律が、やや従属的に扱われるということで、現在聞き馴れているポピュラー音楽も、このホモフォニーと言える。

 

 バッハの作品に象徴される、ルネッサンスのポリフォニー書法は、バロック期にも継承されて、調性によって垂直的に規定されるものに変形し、縦と横の何重もの線に分散する。精緻な音の網目として曲が作られたのである。

 二つの対立するものをテーマにして、緊張関係を作るという試みは、音楽の発展であった。それは、バロック音楽のあらゆる面で利用された。

 器楽音楽の、コンチェルト、協奏曲と言われるものだが、二つの対立する要素の協奏である。それは同時に競争にもなる。競奏とも言えるものだ。

 これには、コンチェルト・グロッソという、少数の独奏者のグループと、全体の合奏が対立するもの。ソロ・コンチェルトと、一人の独奏者と全体の合奏とが、対立する形のものがあった。

 もう一つは、フォルテとピアノ、つまり強奏と弱奏という、二つの音量の対比も行われた。バロック音楽は、この二つを非連続的に、断層的に移り変わる。次の時代の古典派のような連続性は無い。

 チェンバロという楽器を見ても、一つの鍵盤は、強く、もう一方の鍵盤は弱い音しか出ない作りである。つまり、中間が無いというのが、特徴である。

 現在使用されるピアノが作られるには、まだ時間が必要だった。古典派の時代に入った頃、18世紀後半まで待つ必要があった。

 それは、音のあらゆる要求を満たす楽器として開発された。

 私が言う、野蛮な楽器である。そして、馬鹿が弾けば、馬鹿になるのである。

 

 バロックの特徴のもう一つは、即興であろう。

 この時代の楽譜を見ると、フレーズの表示も、表情の指定も、速度の指示さえないものが多い。それはこの時代の作曲家は、演奏家でもあり、楽譜に多くを記す必要が無かったと言える。

 即興の演奏を善しとする音楽家たちの姿が見えるのである。それはまた、具体的に特定の演奏家を決めて作曲がなされたということである。

 作曲者は、曲の輪郭を表示するだけでよかったのだ。そして演奏家に、丸投げしてしまう。バロック音楽は、即興演奏音楽であると言える。

 今のジャズに近い感覚であろうか。

 それが、きっちり、しっかり、あるいは、作曲のための作曲が創作されるのは、古典派以降である。演奏不可能でも作曲するという、それ自体に芸術行為を観た人が現れるのである。

 

 音楽の成立過程は、どうしても、社会の動向に影響される。矢張り、バロックを理解する上でも、歴史的事実を知るべきである。さすれば、バロック音楽の姿が見えるのである。 歌も世に連れ、音楽も世に連れなのである。

 そういう意味で、音楽や歌の発生過程を学ばなければ、他の歌や音楽を蔑視したり、差別したりする原因になる。要するに、勉強不足が招く、不幸である。例えば、声楽家は、歌謡曲、演歌を蔑視、見下げる。知らないからである、その発生過程を。しかし、果たして、自分の成す声楽の発生過程を知っているのかといえば、そうでもない。

 歌の意味さえ、不案内で歌っている者もいるという仰天である。

 最低限、音楽史、歴史、美学、そして哲学と思想史は必要不可欠である。それを学ばない人は、歌を歌えない。好きであるというだけでは、済まされない問題がある。

 日本の歌は、自然発生的に知らずに覚えて、知らずにその発生過程を身につけるが、あちらの音楽である。学ばないで、どうして解るのかと、私は言う。