<<TOP

ある物語 5 

ある物語

1 2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 32
33 34 35 36 37 38
39 40 41 42 43 44
45 46 47 48 49 50
51 52  53  54 55 56
57 58 59 60 61 62 63
64 65 66 67 68

論文集

お問い合わせ

第五話
子供の頃、一番嫌だったことは、母と親戚の家に遊びに行くことだったと、藤岡が言う。
 
母は、鈍感だから気がつかなかった。でも、僕は、僕たち親子が、どんな風に見られているのかを、知っていた。
ててなし子・・・
父親のいない、子ども・・・
 
藤岡の心は、深く傷ついたのである。
 
だから、早く帰りたくて、帰りたくて・・・
 
それでも、母は、出掛けたのである。
つまり、他の付き合いがなかったのである。
 
母には友達はいなかった。
だから、一人でいても平気なんだ・・・
 
藤岡は、そんな中で、より一層勉学に励んだ。
それしか、方法が無いのである。
 
もし、僕が勉強していなかったら、今頃、町工場で働いていたよ・・・
 
そういう、藤岡の昔話を、私は黙って聞いていた。
それに関して、何かを言うことも憚られた。
 
でも、親戚ではない、どこ何処のおじちゃんの家には、よく泊りに行ったと言う。
藤岡を可愛がってくれていた夫婦である。
 
のぶおは、温かいと、いつも、おじちゃんの布団で寝た。
そういうことが、あったことが、藤岡の救いである。
 
心を許せる大人は、誰か・・・
子供の心は、それを見抜くのである。
 
私は一度だけ、そのことで、藤岡が母を責めている現場にいたことがある。
 
どうして、僕の気持ちが解らなかったの・・・
でも、母は、答えなかった。
 
私は、もう止めなさいと、止めた。
 
その状況は、忘れられない。
藤岡に電話で呼び出されて、部屋に行った時である。
 
母と、言い争いになって、私を呼んだ。
 
だが、その頃から、藤岡の母が少し認知症に入っているとは、藤岡も私も、気づかないのである。
 
後で知ったが、いつもかかっていた医者が、カルテにすでに認知症と書いていたのである。
 
藤岡が、亡くなる三ヶ月ほど前に、私の部屋に母を連れてきたことがある。
今、病院に連れて行ったの・・・
 
母の体は、どう・・・
と、私に尋ねるので、私は、母の足を撫でた。
すると、痛いと言う。
 
摩って、痛いほど老化が進んでいた。
 
そして、認知症も、発症していたのである。
 
医者が、母を入院させますかと、聞くんだよ・・・
藤岡が言う。
それで・・・
そんな必要ないって、言った。
 
だが、藤岡も心配になったのか、計算帳を買ってきて、毎朝、母にそれをさせていた。
ボケたら、知らんよ・・・
ボケたら、困るけんの・・・
藤岡は、そう言って、毎朝、母の計算に付き合い、点数をつけていた。
 
だが、それは実に楽しそうだった。
今日は、何点だと、二人で笑った。
 
まだ、ボケとらんね・・・
と、母が言う。
 
だが、それは違った。
渡したお金を、数日で使い果たしてしまうことが、多々あった。
近くのコンビニに買い物に行き、すべて買って来てしまうのである。
 
それで、藤岡は、一週間に五千円だけ上げることにしたと言う。
 
木村さん、母は、ボケてるのかな・・・・
何度か、尋ねられたが、私も、明確に、そうだとは、言えない。
解らないのだ。
 
私が、藤岡の部屋に行くと、藤岡は寝ている。
その母と、話しをする。
必ず、紅茶を入れてくれる。
頼りにしてます、と、母が言う。
 
私の体調が悪いと、その母も心配したという。
僕たち親子は、木村さんがいなければ、部屋も借りられないんだよ・・・
だから、頼りはお金しか、ないんだよ・・・
 
母が死んだら、僕は、天涯孤独になる。
 
お墓は、どうしようか・・・
藤岡は、時々、私に言う。
ところが、藤岡が先に逝ってしまった。
 
後は、すべて私に任されたのである。
今、これを書きつつ、その縁を考える。
 
藤岡は、すべてを私に任せて、旅立ったのである。

<< 1 2 3 4 5 >>