第十五話
年の暮れ近く、藤岡の発表会があった。
発声の先生が主催するコンサートである。
上野に出掛けた。
とても、寒い日だった。
私には、初めてのコンサートである。
その先生は全国を回り多くの弟子がいたが、東京では特に優秀な人たちが集っていたと思う。
今、その時のことを、よく思い出す事が出来ない。
皆で合唱をしたことのみ、覚えている。
藤岡が、ソロで歌ったのか・・・
そして、コンサートが終わり、鎌倉に戻った。
私にしてみれば、大変な旅だった。
長時間の電車は、苦痛以外の何ものでもない。
そのコンサートには、勿論、チケットノルマがあった。
その時、藤岡が幾ら支払って、出演したのか解らない。
だが、私は、それから察して、このままレッスンを続けても、世の中に出るチャンスは、あるのだろうかと、思えた。
それは、藤岡も同じで、翌年から多くのオーディションを受けることになるのである。
年が明けて、私は、まりちゃんの部屋を探す日々を送った。
出掛ける時は、着物を着たが、それが何とも苦痛だった。
鎌倉に暮らすようになって、私は、その姿に気を使わなくなった。
誰も知らない町であるから、私が誰か解らないのである。だから、普段着というより、適当なものを着ていた。
それは、今も続いている。
同じマンションに住む人たちは、着物を着た人が私で、普段着の私は別の人だと、長い間、思っていたようである。
まりちゃんが来ることが、私の一つの救いになった。
知り合いが出来るのである。
藤岡にも、少し、まりちゃんのことを、説明していた。
藤岡も、よき話し相手になった、まりちゃんである。
私たちは、多く、まりちゃんに助けられた。
その年は、私も札幌のお弟子さんたちに、稽古をするため、出掛けることを決めた。勿論、決死の覚悟である。
飛行機か、新幹線かで、迷った。
更に、またフェリーか、である。
三月末に、まりちゃんが引越してきた。
荷物を部屋に入れるまで、私の部屋で待機していた。
その時に、藤岡にまりちゃんと、夫の、れい君を紹介した。
初めて会ったという、雰囲気ではなかった。
四人で、話しが弾んだ。
それ以来、互いに部屋を行き来する、関係が続いたのである。
私は、まりちゃんに、病気のことを少し伝えた。しかし、それほど心配することはなかった。というより、あまり、それを理解出来なかったようである。
だが、二人が遊びに来る度に、私は不調であることを語り、救われた。
ところが、ある日、まりちゃんが一人で、遊びに来た。
そして、れい君が、あまり私の所に行きたくないと言ったと、聞いた。
先生は、いつも気分が悪くて、それを聞いていると、こっちも不安になるとのことだった。
れい君の方が、私の不調をより理解したのかもしれない。
藤岡も、いつも木村さんは具合が悪いと言うと、まりちゃんに言う。
そして、それでも矢張り具合が悪く、藤岡とまりちゃんが話している時、体を横にすることが多々あった。
しかし、それで良かった。
藤岡は、まりちゃんと話すことで解消できたのだ。
藤岡も、徐々に優れないようになってゆくのである。
薬も、何度か、変えた。
だが、中々、藤岡の不安感も払拭されない。
それは、矢張り同じように、電車に長い時間乗ることから始まっていた。
そして、ヤマハのアルバイトも、時期の節目で辞めることにしたのだ。
レッスンは、週に、四回、五回となることがあった。
先生に呼び出されるのだ。
確かに、レッスンはしてくれるが、先生の手伝いと称して、他の人に練習をさせるという、役目もあった。
その合間に、藤岡に多く時間を割いたようである。
しかし、鎌倉から、そのレッスン場までの時間は一時間半を超えた。
そして、乗り継ぎである。
三度、乗り換えしなければならないのである。
相当なストレスを抱えていた。
更に、丸一年を過ごしたが、私の病状は一向に良くならないのである。
薬の処方が、付け焼刃だったのだ。
それを、後で知ることになる。
れい君も、仕事探しを始めていた。
彼らは、複雑な親子の関係から逃れるために、鎌倉に来たということを知ることになる。
れい君は、薬剤関係の研究室にいた経験を生かして、その分野の仕事を探していたが、中々、見つからなかった。
二年目の、鎌倉生活が始まる。
思い出が、前後するが、これは物語であるから、適当に書き続ける。