<<TOP

ある物語 32 

ある物語

1 2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 32
33 34 35 36 37 38
39 40 41 42 43 44
45 46 47 48 49 50
51 52  53  54 55 56
57 58 59 60 61 62 63
64 65 66 67 68

論文集

お問い合わせ

<< ...29 30 31 >>
第三二話


三月の鎌倉は春と言うが、まだ寒い日々が続いた。
 
四月の引越と、東京でのリサイタルの準備を共にしつつ、私は毎日を過ごしていた。
藤岡は、毎日アルバイトに出た。
 
そして、必ず私の部屋に戻り、食事をして自分の部屋に戻るという・・・
その形が定着した。
 
何でも、どんどんと、立場が上になってゆくという。
その社長にも、会って言われたことは、一度、歌を止めて、この道で金を得て、そうして音楽事務所をするといいと言われたという。
 
藤岡の能力の凄いことを、その社長は見抜いたのである。
しかし、歌を一度止めることなど出来ない。
それは、藤岡も私も知るところである。
 
そのために、今までやってきた。
更に、私は、その仕事に関して、あまり良いイメージを持たないのである。
 
やれやれの、成功哲学方式である。
アメリカ仕込みのもの。
 
社長は、世界に10軒も家を持つという。
金持ち・・・
そうして、金の威力を見せ付けるという・・・
 
時々、私は夜遅く、藤岡を部屋まで送って行く事があった。
何となく・・・
 
寒い鎌倉の春先の夜・・・
旧鎌倉市内は、こじんまりとして、風情があると書きたいところだが、違う。
空々しいのである。
 
そして、不気味である。
よくぞ、こんな所に人が住むものだと、思い始めていた。
だから、引越も、すんなり決めたのだ。
 
引越の手伝いに、まりちゃんがやって来る。
兎に角、本が多いので、捨てるべきものを最初に探すことになる。
必要なものを、まりちゃんに、詰めて貰う。
 
それから、私は東京リサイタルのチラシを印刷屋に頼む。
原案は、藤岡が作り、それを校正するという・・・
 
もう、あまり時間がないので、急ぐ。
引越の前までに作り上げて、配布しなければならない。
 
その頃も、私は原稿書きの仕事があった。
色々とすることがあり、忙しいという気分を、札幌以来はじめて、味わっていた。
 
本は、ゴミ集めの紙、本の日に出した。
小説類は、すべて捨てた。
その時、案外執着していないと思い、自分でも驚いた。
更に、全集物は、買い取ってもらった。
中には、これから手に入らないのではというものがあったが、それも、執着しなかった。
 
新しい生き方・・・
そんなことを、考えさせられた。
 
藤岡のプロデュース・・・
思いもかけない事態であるが、そちらに私の心が動いていった。
 
そして、そのうちに・・・
リサイタルの予定を勝手に考えはじめた。
 
藤岡も、自分でホームページを作り始めて、何やら、自分の気持ちを高めている様子である。
 
更に、私は、藤岡がローマの教会などで歌ったものを、手作りのCDにして、札幌のお弟子さんたちに、買って貰おうと企画した。
その後、私が藤岡のCD製作をするとは、考えてもいないのである。
 
四月、引越の日・・・
私は、一人で引越屋の人たちと、荷物を積んだトラックに乗り、横浜に向かった。
あっという間の一日で、藤岡が戻った頃は、荷物をすべて部屋に入れて、終わっていた。
 
中華料理の店から出前してもらい、その夜は新しい部屋で藤岡と食事をした。
今夜から、二人暮らしである。
 
とりあえず、布団だけを出して、寝ることにする。
 
藤岡には、南向きの部屋を与えた。
私は、真ん中の窓の無い部屋で寝ることにした。
 
その後、藤岡は、よく眠りたいとのことで、部屋を交換することになる。
私が早起きであるから、丁度良かった。
だから、その南向きのベランダのある部屋が、私の部屋になった。
 
そして、マンションの廊下側の四畳半の部屋が藤岡の練習室である。
夜、10時まで音出ししてもいい規則である。
その意味もあり、とてもよい部屋を選んだと思う。
 
私は、今も住み続けている。
 
藤岡は、翌日、鎌倉に戻り、自分のスーツなどを運んだ。
そして、仕事に出る。
 
ある程度、日々の暮らしのテンポが出来た。
私は、そのまま物書きをして、昼間、藤岡のいない時間を過ごす。
 
三度の食事は、皆、私が用意するのである。
その頃も、まだまだ贈物が多かった。
北海道の海産物、肉類・・・
 
食べる物に不自由しない生活である。
米さえあればいいのだ。
そして、いよいよ、東京リサイタルの日が来る。
着物しか着ない私は、着物以外の着るものがないから、着物である。
それで、受付をする。
そんな藤岡のリサイタルがはじまるのである。
 


<< ...29 30 31 >>