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ある物語 34 

ある物語

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第三四話


東京での、ソロリサイタルを終えて、次は、五月の札幌リサイタルの準備である。
と言っても、私は、時間に十分余裕のある生活をしていた。
 
藤岡が朝、仕事に出掛けると、後は、私一人で一日を過ごす。
原稿の仕事が激減して、追われることもなく過ごす。
 
何をしていたのか・・・
昼の三時を過ぎると、よく銭湯に出掛けた。
 
そして、次第に調子がよくなってくる状態を感じていた。
乗り物に対する恐怖が減った。
だが、二ヶ月に一度、鎌倉に戻り、薬を貰う。
二度と、あの体験はしたくないと思い、薬を続けていた。
 
パニック障害が、マスコミにも取り上げられて、次第に多くの人に認識されるようになった。いいことだった。
 
ただ、抑うつがある。
パニック障害の奥には、抑うつ感情があるのだ。
うつ病ではなく、抑うつ症である。
 
これが、曲者で、何となくと、出てくる。
誰しも、気分の塞ぐことはあるが・・・
何とも、重苦しい感覚である。
 
鎌倉の時に、毎日、私は過去のことを振り返り、いつから始まったのかを、詮索していた。毎日、それを日記のようにして書いた。
結論は、生まれつきだった。
 
生来のもの。
そういう体質であること。
だから、薬が必要であると確信した。そして、それが必要であり、無理することもないという、確信である。
 
薬の副作用・・・
そんなものは、死んだら、取れる。
ここまで、回復したのである。
 
だが、何か焦りに似た状態が続く。
つまり、暇なのである。
毎日、お祭りが必要だった私は、札幌で文化教室をしていた時期、毎日がお祭りのように、動いていた。
それが、移転して、鎌倉で生活を始めてから何も予定が無いのである。
 
そして、横浜に来てからも・・・
鎌倉の生活は、病気との対話である。
横浜では・・・
 
藤岡のコンサートを企画する。
はてっ・・・
私は、どうして札幌から出て来たのか・・・
 
だが、手を付け始めた以上は、ただ前に進むのみ。
 
札幌のお客を増やすために、手紙を書き始める。
メールなどのやり取りは、知らなかった。
というより、出来なかった。
藤岡は、すでにメールのやり取りなどを始めていたが、全く興味を持たなかったのだ。
 
相変わらず、ワープロを使っていた。
藤岡亡き後、七年後に、ついに壊れた。
一度、修理に出しだが、もう、これで終わりだと言われた。
つまり、ワープロの時代が終わったということだった。
 
実は、ワープロの時代が来たときも、私は中々使わなかった。
当たり前になった時に、ようやく、始めたのである。
 
だから、パソコンもそうである。
今は、一日の大半をパソコンに向かっているが・・・
何もかも、パソコンなのである。
 
さて、札幌コンサートである。
どこのホールを使うのか・・・
私は、鎌倉にいた時に、友人に電話した。
彼は、あるホテルの常務だったので、そのホテルのホールでもいいと思った。
 
彼は、料金を下げるというので、使用することにした。
私も、何度か利用したことのある、ホールである。
しかし、そこが素人。
 
音響などの色々を知らない。
だから、本番当日、リハーサルをして気づいた。
響きが無いのである。
 
そのことについては、また、後で書く。
兎に角、場所を決めて、チラシを作るという。
誰もが知る場所なので、安心した。
 
そして、幸運が重なった。
藤岡を札幌時代に知る、ある方のグループから、藤岡に依頼がきたのだ。
突然だった。
 
そこで、札幌リサイタルの前日に、そのコンサートにゲスト出演することになった。ゲストといっても、藤岡一人であるから、リサイタルのようなものだった。
 
ギャラも出る。
一石二鳥だった。
 
少し、先が明るく見えた。
 
横浜は、鎌倉より、春先が温かい。
更に、五月は、夏に近い。
 
引越、東京リサイタル、札幌リサイタル・・・
忙しいのである。しかし、私には、大したことではなかった。
札幌時代に比べると、天と地の差である。
 
時々、以前に書いていた、歴史小説を校正する程の余裕があったのだ。


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