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ある物語 57 

ある物語

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第五七話


日々の生活が、藤岡の行動を中心にしたものになってゆく。
それで、良かった。
 
私のことは、二の次である。
更に、ある程度の諦めがあった。
藤岡が成功したら、自分のことをするということ。
 
占い関係の著作をしたいと考えていた時期もあるが・・・
そして、東京での文化教室開催である。
 
東京なら、何か新しいことが出来ると思っていたのだ。
 
だが、その頃になると、次第に興味を失ってゆくのである。
最後まで、興味を持ったのが、いけばな、と、舞踊である。
茶の湯は、もう無理だと思った。
 
その茶の湯の道具類は、東京のある整体の先生の所に、預けてあった。
結果的に、それを利用したのは、一度だけである。
 
だから、毎日、毎日、藤岡のコンサート予定を考えていた。
 
兎に角、コンサートホールの予約は、長い所では、一年半前からである。
そして、一年前、半年前・・・
 
年を越して、開催を考えるのである。
カレンダーを先取りする。
 
興行というのは、博打だと、昔聞いたことがあったが・・・
まさか、私がそれをするとは、思わなかった。
 
更に、藤岡に一々、尋ねることなく。
 
花粉の時期を過ぎて、春、そして梅雨の時期を迎える。
季節の移ろいの中で、生きている。
 
近所の庭の花々を見て、季節を知る。
アジサイの花は格別だった。
 
マンションの横は線路沿いで、そこにも名の知らぬ花が咲く。
それも、楽しい。
 
そのうちに、思いついたことがある。
日本カウンターテナー協会である。
いつか、いつかと、考えた。
 
それを、藤岡に言う。
驚くこともなく、いいね、の一言である。
 
そして、数少ないカウンターテナーを集めて、コンサートをするというアイディアである。
 
その企画は、2003年2月に、「飛べカウンターテナー・五人のカウンターテナーによる競演」で実現した。
 
であるから、カウンターテナーとの出会いがある。
積極的にこちらから、働きかけたものである。
 
その一人一人と出会い、それぞれの付き合いを通し、関係を深くし、その計画を打診すると、皆が賛成してくれた。
 
そのために、一年ほどを要したのである。
 
2002年も、毎月のようにコンサートを開催した。
兎に角、思い付けたことを、即実行するという・・・
 
更に、藤岡のリサイタルにも、それぞれのテーマをつけることにした。
その一つが、和の心・洋の心と題して、日本語、外国語で歌うコンサートである。
 
更に、アカペラでのコンサート。
これも、長く続けて行きたい企画だった。
藤岡の声は、アカペラが、生きるのである。
 
その響きは、アカペラだから、益々と冴えた。
 
そして、それは、私がいつも聴いていたからでもある。
私のマンションの一室で練習する藤岡の声が、素晴らしいのである。
 
一番、多く藤岡の声を聴いていたのが、私だと、今、しみじみと思うのである。
 
花見をするということはなかったが、藤岡と道々歩いていると、それぞれの庭先に咲く花を見て、楽しんでいた春の日。
 
その頃の、私の読書は、不思議なことに、西洋音楽に関するものが多かった。
全く、読む気もしないものを、自然に手にとって、読んでいたのである。
 
二十歳の頃から、本格的に読書をしていた私は、本を読むのが生活の一部になっていた。本の無い生活は、無かったのである。
 
それは、小説を書くために・・・ということもあったが、精神安定でもあった。
 
札幌の頃は、忙しくて本が読めないと、とてもイラついていた時代がある。
人との付き合いより、読書を選んでいた時期もある。
 
鎌倉、そして、横浜に来ても、小説は、何気なく少しずつ書いていた。
発表するわけではないが、それも精神安定だった。
 
更に、昔書いていた、歴史小説の校正などもしていた。
その後、それを自費出版することにもなる。
 
更に、書き物も、毎日していた。
昔のお弟子さんたちに、毎月送るものを、書いていたのである。
天山通信として・・・
 
そこから溜まった、エッセイも簡単な本にして、残してある。
今は、それらも思い出である。
 
時々、藤岡と喧嘩したことがある。
私が物を書いている際に、藤岡が口出しする時だ。
鎌倉時代に、新聞にエッセイを書いていた時は、藤岡の校正が入る。
藤岡は、とても煩かった。
 
私にすると、どうせ記者の手が入ると思っているので、まあまあで書いていたが、藤岡が、校正を要求するのである。
大学院時代に、文章に関して、とても厳しい訓練をしたようで、妥協しないのである。
 
私は、売文であるから、ある種の適当さを持っていた。
編集者の手が入ることを、前提に書くと言う・・・
 
それも、今は、思い出である。
 


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