<<TOP

ある物語 65

ある物語

1 2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 32
33 34 35 36 37 38
39 40 41 42 43 44
45 46 47 48 49 50
51 52  53  54 55 56
57 58 59 60 61 62 63
64 65 66 67 68

論文集

お問い合わせ

<< ...49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 >>
第65話


宗教曲のリサイタルである。
2002年10月。
 
これは、私が藤岡の宗教曲をじっくりと聴きたいというのと、録音をしたいという思いからだった。
 
伴奏は、チェンバロである。
それも、私の好みだ。
 
更に、その日は、私がその曲の説明を付けるという、試み。
藤岡も賛成した。
 
歌詞の訳について、私が更に解釈するというものである。
ところが、歌詞の訳が、とても難しいのである。
何故こんな訳にするのか・・・
 
これは、キリスト教を知らない人ではないかと思えた。
だから、本番では、訳を読みつつ、その訳の批判をしつつ解釈した。
 
勿論、録音には、入らない。
録音は歌のみである。
 
お客さんが少ない方がいいのである。
雑音が入らない。
とても、贅沢な演奏会になった。
 
私としては、納得するものだが・・・
藤岡が、それをCDにするのはと、躊躇った。
 
藤岡自身、納得しないものがあったようだ。
だが、その時の歌声として価値があると、私は判断していた。
 
結局、それはCDにせずにあるが・・・
 
そのように、録音を主にしたリサイタルも、多く開催した記憶がある。
兎に角、のこしておくという意識である。
 
更に、藤岡も自身で録音するという、とてもそういうことには、真面目だった。
だから、その没後に、多くの貴重な音源が残ったのである。
 
その翌月は、私のアイディアで、琴の伴奏で日本の歌を歌うという試みを札幌にて開催した。
 
それも録音業者に頼んだが・・・
何とも、いまひとつ、納得出来ない録音だった。
 
その後、その録音業者に手直しを要求したが、そこまでの技量がなかったのである。
 
琴の伴奏での日本の歌には、アジア系の留学生を多く招待した。
私の友人のカトリックのシスターが、アジア系の留学生の支援をしていたこともあり、その申し出を、とても喜んだ。
 
琴の伴奏という試みは、皆さんとても楽しんだようで、その後の評判が良かったことを覚えている。
 
藤岡と私と二人で、札幌に出掛けた思い出がある。
一泊だけの演奏旅行であった。
そして、次の予定を決めるという・・・
 
札幌では、年に二回のリサイタルを目指していた。
次第に、お客さんが多くなることを、願っていた。
また、札幌には、昔の私のお弟子さんたちも多い。
 
お弟子さんたちと会うことも、楽しみだった。
藤岡も皆さんと顔見知りである。
 
札幌時代に、藤岡も私の文化教室に何度も、遊びに来ていた。
 
また、別の藤岡のファンのグループも存在していた。
 
定期的にリサイタルをすることで、より充実したコンサートを作り上げようとの思いである。
 
そして札幌は、食べ物が美味しい。
どんな居酒屋に入っても、魚介類は新鮮だ。
だから、食事は、すべて魚介類である。
 
藤岡も好きだったので、本当に楽しみだった。
 
ホテルの部屋で、何を話していたのか忘れたが・・・
色々な話をした。
 
更に、更に・・・
こうしたい、ああしたいと、私が提案していたように思うが・・・
藤岡は、それについては、反対することはなかった。
 
その頃から藤岡には、何か、クラシック音楽から抜けるという無意識の意識があったように思う。
 
このままでは、終わらないという・・・
 
逆に、私の方が、クラシックに拘っていたのかもしれない。
それが、後で次第に解ってくるのだ。
 
教えることと歌うことで、満足出来なかったのかもしれない。
もっと、新しい世界への希望を見ていた藤岡だったと思われる。
 
だが、それは後半である。
その頃は、全くクラシック一本の意識である。
 
勿論、日本の歌といっても、次第に歌謡曲の世界にも目を向けることになるが・・・
 
最初は、日本歌曲といわれるもので満足していたが、そのうちに、歌謡曲にも多くの良い歌があると、気付き始めるのである。
 
昔の歌・・・
懐かしい歌の中に、藤岡の表現する意欲が湧くものがある。
私も、それには大賛成だった。


<<  ...49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 >>