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ある物語 66

ある物語

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第66話


その年、2002年11月は、四度の舞台だった。

札幌の話は、書いたとおり。
その後、北とぴあ、というホールでのゲスト出演である。

そして、東京でのソプラノとの共演リサイタル。
最後が、鎌倉のハンノキのコンサート。

鎌倉のコンサートは、北鎌倉の自然を守るという主旨の会からのもので、二度目である。

遠い記憶を辿る。

すべて私も、同行していたが・・・
明確に思い出せないのである。

東京は、私の企画だったので、何となく解るが・・・

藤岡が何を歌ったのかまでは、思い出せない。

季節は、秋である。
次第に、肌寒くなる季節だ。

着物もすでに、袷を着ていた。
そう言えば、藤岡が一緒の私に、木村さんが出演者のようだと言ったことがあった。

大名のような着物・・・
そんな言葉も思い出す。

確かに、私の着物は、すべてが男物ではなく、女物も多かった。
男物ばかりでは、飽きるから、女物の着物を仕立てて着ていたのである。
それは、札幌時代からである。

藤岡も着物に興味を持っていたが、着たのは、浴衣だけである。
夏のコンサートで、浴衣を着て開催したことがある。

それは、後のことだ。
その時、写真を撮ってと言われて、また着るからと、忙しくて撮らなかった思い出がある。
だが、今は、後悔している。

その後、藤岡が亡くなったからである。
あれが、最後だった・・・
それを、思うと、全く駄目だ。
切なくなる。

さて、秋から冬は、明確ではない。
次第に、寒くなるだけで、雪も降らないから、何となく、秋が続くように思えた。
そして、その寒さは、どうしても慣れないのである。

こちらの寒いという感覚と、札幌での寒いは、全く別物である。
北海道の寒さは、痛いと表現出来る。
こちらは、本当に寒いのである。

だから、札幌から友人が来ると、寒いね・・・となる。
そして、室内も寒いのである。

暖房設備が全く違う。
私は、ガスストーブを使っていた。

練習に来る藤岡も、寒いと言う。
エアコンの暖かさもあまり、効き目がないのである。

冬は、本当に具合も悪くなり、困ったものだった。

だが、こちらには、緑と花があるのが救いだ。
半年続く、白い世界は、気を滅入らせる。
どっちも、どっちである。

街中にクリスマスの雰囲気が漂う時期になる。
私も藤岡も、あまり関係ないことと関心がなかった。

藤岡は、それなりにパーティに呼ばれたりして、出掛けていた。

私は、昔、カトリックだったので、その意味を知る。
だから、街中の騒ぎは、解せないのである。

イエスは、四月生まれ。
教会が、四月の復活祭と重なるため、聖誕祭を十二月にしたのである。
更に、クリスマスとは、キリストのミサという意味。

酒を飲み、盛り上がってという、気分ではない。
だが、それを否定もしない。

藤岡と、笑ったことは、クリスマスを祝い、新年に神社参拝し、葬式は寺に行く日本人であると・・・

日本人って、凄いね・・・
藤岡が言う。
節操ないって感じ・・・
というより、一つの宗教に捉われないことが、いいことかも・・・
そうだね・・・

強制されないで、祝っているからね・・・

ということで、普段通りである。

大晦日は、藤岡も早く部屋に戻る。
母親と少しばかり、一緒に過ごすのである。
それでも、藤岡の母親もあまり気にしないタイプで、翌日の元旦には、私の部屋に来ていた。

そして、言う。
昨日、どんべいを食べて、母親が美味しいねだって・・・と言う。
食事の支度が苦手な母親だと言う。
また、どうしてこんな不味い物を作れるのか、不思議だとも言うのである。

それでも、外食が嫌いな人だった。
私が誘ってみても、一度だけ、引越しした日だけ出て来た。
その後は、皆、断られた。
あの人は、一人でいることが、苦痛ではないの・・・
藤岡が言う。


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