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ある物語 67

ある物語

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第67話


時に感じて、藤岡が、子供の頃の話をすることがあった。

貧しさは、私と同じである。
というより、私の方が年上だから・・・
もっと、貧しかったと思うが。

六畳一間の部屋で、母と暮らしていた頃・・・
母の自転車の後ろに乗り、銭湯に行った。

幼稚園の頃は、母に連れられて行くが、母が帰ると、よく泣いた。
いつも、母の後ろについていた。

それは、よい幼児体験だったと、思う。

そして、小学校に行くようになると、母が、ハッパを掛けたという。
父親がいなくても、立派にしなさい・・・
きちんと、勉強して、後ろ指を指されないように・・・

その頃から、勉強が好きになったというから、驚く。

また、親戚のおじちゃんが、よく遊びに来たり、その家に、遊びに行ったという。
全くの、孤立ではないことが、幸いだ。

実の父親も、おじちゃんと、呼んでいた。
だが、大学生になる頃から、藤岡も母も、おじちゃんが必要ではなくなる。

母の躾は、実に厳しいものだった。

ある日、一人で、カップ麺を食べて、その汁をこぼしたことがある。
その時、母に殺されると思って、ワンワンと泣いたという。

藤岡の几帳面さが、その頃から、作られていったのだろう。

矢張り、貧しいのは、私の方だった。

藤岡は、時々、母がデパートに連れて行き、食事をしたという。
私の街には、デパートなどというものがなかった。
まして、外で、食事をするなどとは・・・

でも、藤岡のオムライスを一つ頼むだけだった。
母は、それを黙って見ていた。
それを、食べきれず残すと、母が食べた。

私の場合は、オムライスも知らない。

子供の頃の、おやつといえば、軒先に吊るされた、干した魚類である。
今では、懐かしく食べたく思うが・・・
当時は、それである。

藤岡の頃は、お菓子なども、多くあった。そして、果物である。
母は、いつも果物を用意していたという。

料理好きではない母の、料理を食べていた。
とても拙いものも、食べた。
母の方が、拙いというので、笑ったという。

藤岡が、仕事に就いてから、母は美味しいものは、外で食べなさいと言う。

だが、母は、買い物が好きだった。というより、買い物でスーパーに行き、時間を使うのが過ぎだったようだ。

何度も、母は一人でも、寂しくない。
友達も要らないという。

テレビがあれば、それでいい。
そして、洗濯が好きである。

成績優秀な藤岡は、五歳の頃からピアノを習い始めた。
それを続けていた。

そして、ある日、アップライトのピアノを母が買ったという。
とても、驚いたらしい。
それも、現金である。

六畳一間の部屋に、それが置かれた。
藤岡の音楽生活の始まりである。

ピアノコンクールも受けた。
そして、入賞、受賞する。

それらは、遺品として今もある。

中学生の頃は、生徒会の会長をしていたが・・・
三年になり、ピアノと勉強のために、泣きながら、先生に頼んだという。
会長は、出来ません・・・

兎に角、模範生だった。
小学生の時に、家庭訪問に来た先生が、母に、どうしたら、こんなに立派なお子さんになるんでしょうと、言ったらしい。

人の前に立っても、しっかりと話が出来たんだ・・・
それは、私の少年時代には無いことだ。

成績の悪い、目立たない存在だった私とは、違う。

私が目立ったのは、高校生である。
キリスト教徒ということが、原因だった。
熱烈な信者である。
また、その頃から、布教を始めたという、変な時代である。

藤岡は、無神論である。
私も、無神論であるが・・・
その内容が違う。

お経を唱えても、祈りを上げても、藤岡は、不思議に思うことがなかった。
それより、どうして英語を覚えないのに・・・
そんな長い文句が覚えられるの・・・
と、訊いていた。
そういえば、祝詞も唱え出していたのだ。

無神論であるが、霊の存在は、信じていた。


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