帰国の日、ツアーであるから、旅行会社の迎えがある。
午前11時55分、ホテル出発。そして、ある施設に行く。買い物をさせるのである。
皆、ブランド物ばかりの建物である。
自由時間は、一時間半。
私は、その間に、サイパン島の大聖堂、マウント・カーメル・カテドラルと、今は、参る人も少ないという、最初の戦没者記念碑に向かう。
激戦で亡くなった兵士、民間人を慰霊する。
政府が建てた、戦没日本人の碑、複数の慰霊碑、招魂碑がある。
カテドラルの傍にあるというのが、印象的だ。
タクシーを飛ばして行く。
時間が無いゆえ、お金のことは考えない。
大聖堂、カテドラルは、一つの扉のみ開いていた。
入ると、すぐに祭壇がある。
ライ教会とは、違う。あちらは、町の教会であるが、こちらは、権威が感じられる。権威というのは、表現不足である。重厚な雰囲気であり、霊的に強い。
すぐに祭壇の前で祈る。
そして、感じた。
前から押される程の威圧感である。体が揺れる。
少しばかり様子をみるが、矢張り、強い。何かがある。
圧力が体を押すのである。
祈りの層であろうか。祈りの層とは、人の想念である。
人の想念は、神もどきを作り出す。想像の力による、念による、霊的な磁場を作るのである。または、死者の想念の場合もある。
膨大な死者の想念が、塊になっている場合である。
主の祈り、アベマリアを唱える。
言い忘れたが、入り口で、聖水を取り、十字を切るのである。魔を取り去る。
ある日本の地方の教会の納骨堂に入り、頭が締め付けられたことがある。
死者が、そこにいるのである。そこで良しとしている。
霊界、次元移動せずにいる場合である。
天国に行くと教えられても、行けずにいる。その教会の上空にも、上がれないでいる。
これについては、本意でないので省略する。
さて、急ぎのゆえに、その力の何かを見極めずに、教会を出た。
同行の者が、初めてのカトリック教会だということで、感激していた。
その後で、カトリックの組織の説明を求められて、やたら話すことになったが・・・
最後の目的、日本人戦没者慰霊碑の参拝である。
あらかじめ、祝詞の最初を唱えていたので、重要な部分のみを唱えた。
ここで、慰霊碑と、招魂碑についていう。
慰霊碑は、その名の通りであるが、招魂というのは、文字の意味からは、魂を招くということになる。
ここに、おいでくださいと、場所を提供するのである。
あちこちに、出られては困る。
あなたたちの場所を用意しましたという意味である。それは、仏壇などにも言える。霊界の入り口の役割を果たす場合もある。単なる飾りの場合もある。それは、奉る人の思いと、所作による。
こちらを通して、お奉りしますという意味である。
だから、よく解らずに手を合わせて、具合の悪くなる人もいる。
神道では、招魂という言葉を多く使う。しかし、今では、慰霊と同じ意味合いであろう。
招魂祭という行事が子供の頃にはあった。
招いて、お奉りし、慰める。それは、古神道、古来からの日本人の作法である。
祭りの意味である。それが、神様だからよいが、迷える幽霊ならば、困るのである。
招いたが、戻らない場合もある。そして、人に憑く。それは、実に困る。
神社が怖いのは、招魂するからである。
必ず、お戻ししなければならない。呼んだまま、放置している場合も多々ある。
教会の場合は、死者は天国に行くと信じているから、幽霊の存在は無いという考え方である。しかし、考え方と、実際は違う。
現れるのは、聖人とか、聖母の場合のみだと言う。それは、実に、おめでたい。
カトリックでは、奇跡に関しての調査もある。
一時期、聖母出現、聖母が涙を流すということが、世界中で多々あった。
日本では、秋田の教会もある。
レベルの低い霊界の仕業の場合、多々あり。また、祈る人々の念の強さによって成る場合もある。
私が言えることは、神といわれる存在にあるレベルの世界は、奇跡は起こさないのであるから、奇跡は、レベルの低い霊界の関与、あるいは、魔的なものとして捕らえるのが、正しい。
奇跡といえば、私も、サイパンで、オッーと驚くことがあった。
最初に言うが、奇跡ではない。
私が、一人で行動した日の夜に、繁華街に出て食事をした。ホテルの部屋に入った途端に雨が音を立てて降った。
実は、天気予報で、三日目あたりから、雨の予報だった。あちらの雨は、ザーと降る。行動している間は、降らないで欲しいと願った。
だから、部屋に入った途端の雨には、驚いた。私がアホなら、ほら神様の云々というが、奇跡を起こすような神様ならば、こちらから御免こうむるのである。
真実は、いつも当たり前の事柄にある。これ、真理である。
慰霊の行為の最中にも、奇跡は無かった。本当に良かった。
無事に終えることが出来た。
感謝である。
慰霊の意味を言う。
日本にいても、慰霊は出来る。霊に、場所は関係無い。しかし、天皇の存在について言ったが、そこに行くことに意味があることもある。
そこに出掛ける、労苦を霊は見る。
墓参りに、難行して行く人がいる。それを霊は見る。その行為が、霊を慰める。
霊の無いという人には、到底理解出来ないことである。
ただし、私は説得しない。霊がいないという人に、霊がいるというアホな説得は、百害あって一理なしである。
死ねば解る。
そして、皆々、確実に死ぬ。
後、五年もすると、死なないことが出来る時代になると言うが、果たして、永遠に行きたいと思う人が何人いるか。
皆、最後は、死にたくて生きているのである。
もう十分と思って死を願う。
意識のある介護される老人が、お願いだ、殺して欲しいと言う場面に出会う。
もう生きていたくないという。
生きていたくないと思う心が悲しい。
しかし、必ず死ぬ。それが救いである。
そう救いとは、死ぬことである。
宗教で言うことろの救いは迷いである。
救いは、皆、平等に与えられてある。死ぬのである。
何事も、真っ当に考えることである。
注・
慰霊の行為は、これからも、続ける。
タイ・チェンマイから、北部タイ、ミャンマー国境地帯等々、そして、ミクロネシア連邦の、トラック諸島の海底に沈む、戦没者の遺骨、ラバウル、ガダルカナル、そして、オーストラリアのダーウィンである。ダーウィンは、日本人ではない。オーストラリア人である。
日本軍の攻撃により、400名の市民が亡くなった。それの慰霊を、日本は行っていない。
何故、私が、慰霊を行うか。それは、千年の日本のためである。
我が心に促されて、行う。
つまり、亡くなった人々に呼ばれていると、考える。
追悼慰霊されることを、待ち望んでいるのである。
思い出して欲しいのだ。
戦後処理は、為されていない。
それは、追悼慰霊が、されていないということだ。
第二次世界大戦により、日本は、行くべき道を、今のように決定した。
あの戦争は、特別な意味があったということである。
講釈を垂れるより、慰霊することである。
何故なら、人は、死んでも、死なないからだ。
亡くなっても、無くなって、いないのだ。
私が、慰霊を決めると、必ず体に異変が起こる。熱がないのに、風邪のような状態になる。これは、彼らと感応しているからだ。行くしかない。
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