木村天山旅日記

遥かなる慰霊の旅 平成19年11月1日

第四話

 

いよいよ、国境を越えて、再びタイに戻る。

名残惜しい。

二時間は、あっという間であった。

何より、川沿いにて、慰霊が出来なかったのが、残念である。勿論、どこの場所でも、出来るが、ミャンマーである。怪しまれて、尋問を受けるということになれば、大変なことである。

この地にも、多くの日本兵が、辿り歩いた土地である。

しかし、もう時間が無い。

 

国境を戻る。

すでに、一時を過ぎている。

腹も空いた。

 

国境を渡る橋で、彼らと出会った。

それは、橋を拠点にして、生活する、アカ族の子供たちである。要するに、ストリートチルドレンである。

まず、私の傍に来て、缶を差し出す。お金を恵んで欲しいというものである。

小銭を出して、その中に入れた。すると、次から次と、やってくる。

私の周りに、子供が溢れた。

 

その中に、一人、賢い顔の男の子がいた。

子供たちは、貰った小銭を彼に渡している。要するに、その中の、主、オサなのである。

彼は、子供たちに、分配する役割を持っていると、見た。

その彼の白いTシャツは、煤けて、真っ黒になっている。

 

彼は、私たちが、ミャンマーの手続きを忘れていることを、教えてくれた。

そのまま、タイの国境に向かっていたのだ。

再度、戻り、ミャンマーを抜けることが出来た。

 

その時である。あの、子供服をと思った。しかし、もう一枚も無い。

 

私は、タチレクの街中でインド人が売っていた、揚げ物を、彼に渡した。

興味本位で買った揚げ物だった。後で、どんなものか、食べてみようと思ったのだ。

彼は、それを受け取ると、皆に、分配した。

さすがだった。

 

少数部族に関しては、多くを知らないが、実に、多くの部族がいる。

中でも、有名なのは、アカ族である。

実は、この地は、アカ族の支配にあった土地である。しかし、彼らは、追われて、分散し、ミャンマー、タイに、点在している。

ミャンマーにいるアカ族が、特に貧しい。だが、貧しいといえば、多くの少数部族は貧しい。ろくな、衣服も無い部族もいるという。

 

そこで、あることを、聞いた。

 

貧しい少数部族に、キリスト教の布教が入っているという。

私も、タチレクで、プロテスタント、カトリックの教会を見た。

プロテスタントは、数多く、多くの派閥が参入している。

 

少数部族を、キリスト教に改宗させるという、傲慢極まりないことをしている。

そして、その方法である。

断じて、許し難いのである。

 

教会に出ると、お金を出すのである。

そして、村の中心人物に目をつけて、それを、懐柔する。勿論、お金である。

そして、村の人々を教会に通わせる。

それが、それまでであればいい。しかし、それが、逆効果を生む。

教会に行けば、お金が貰える。すると、働かない。そして、余裕が出来ると、麻薬をやる。

 

国境地帯は、麻薬の温床である。

 

勿論、キリスト教の信仰を拒んで、お金を貰わない部族もある。

貧しいままで、自分たちの信仰を守る。というより、伝統を守るのである。

 

キリスト教徒は、売春を事の他、嫌うが、キリスト教徒である、売春をするのは。ヨーロッパ系の男は、大半が、タイ人の女を連れている。

勿論、欧米人だけではない。多くの国籍の者、売春をする。

それは、それでいい。

 

しかし、キリスト教を布教するために、お金を使用するとは、許せないのである。

つまり、体は、買わないが、心を買うということである。

それを、私は、売心と言う。

ばいしん、である。

 

買春をする者を、キリスト教徒は、裁くが、心を買う行為を平然と行う。

それらの、お金は、本国の信者から、集めたものである。

キリストの教えを伝えるためにという、大義名分で、思う存分に、寄付を募るのである。

 

そして、最も大切な、部族の伝統を破壊し、平然として、誤りのある、キリスト教を伝える。

一神教が、現在の世界の、大きな罪悪であることを、彼らは知らないし、知ろうとも思わない。信じてしまえば、元に戻らないのが、一神教である。

 

欧米諸国の傲慢は、キリスト教に象徴される。

ここでは、教義に触れないが、彼らの神学は、完全無欠に誤りである。

それは、唯一の神というからである。

 

この宇宙に、唯一の神という存在は無い。

 

更に言う。

チェンマイにて、野中が、プロテスタント系の教会に、何度か出掛けて、その教えの様を、見聞してきた。

明らかに、タイの国情を混乱させる教えを、平然と行っている。

タイは、九割以上が、仏教であり、それは、宗教の域を超えて、伝統となっているのである。加えて、ピーという、精霊信仰である。仏教以前の、タイの伝統的信仰形態である。

それを、簡単に破壊する。

 

我のみが正しいと、キリスト教徒は、どれ程多くの人の命を奪ったか知れない。

侵略というならば、アメリカなどは、とんでもない侵略をしたのである。数限りない、インディアンを殺しつくして、アメリカという国を建てた。清教徒というが、とんでもない。悪教徒である。

 

スペインなどは、アメリカ大陸で、現在のブラジル、ペルー、チリなど等の、原住民を一億人殺したのである。カトリックの名においてである。

 

ただ今、タイに布教するキリスト教は、タイの伝統を破壊し、果ては、対立をもたらす。

タイ南部では、イスラムが、仏教徒を殺すと言うテロが、横行している。これに、キリスト教が絡めば、また、大変なことになる。

 

まず彼らがやることは、罪の意識を植え付けることである。

タイでは、何でもなかったことが、罪と意識される。そして、次に、マインドコントロールである。

洗脳するのである。

 

他宗教に免疫の無い、タイの若者が、その罠に嵌る。

一見して、ボランティア等で、良い行為をしているが、元を辿れば、布教である。彼らは、無償の行為などしない。神の愛が、アガペーという、無償の愛と言いつつ、彼らは、信者獲得のために、善行をする。それは、善行にならない。報いを求めるからである。キリスト教への改宗である。

 

そして、その奥の奥には、白人支配の傲慢がある。

白人のみ、正しいのである。

キリスト教が、ローマカトリックになった時からの、それは、歴史である。

本来の、ユダヤ人キリスト教徒までも、異端として、退けたのである。

十字架に張付けられたイエスキリストを、白人に、置き換えたのである。

 

主なる、イエスキリストは、ユダヤ人である。

 

低脳な霊能者をも凌ぐような、低レベルの、霊的行為をもって、洗脳する様を、野中は確認している。

賛美歌を歌いつつ、聖霊が降りたと、若者を騙すのである。

キリスト教徒の上に、聖霊が降りることは、無い。降りるのは、悪霊である。聖霊が降りれば、原爆など投下出来ない。

キリスト教徒の霊性とは、自己暗示である。彼らが、逆立ちしても、太陽の霊性を得ることは出来ない。すべて、実証済みである。

 

仏陀は、人は行為によって、成るものに成ると言う。実に、正しい。

キリスト教徒の行為を見よ。それで、十分であろう。

 

タイには、いや、ミャンマーにも、続々と、キリスト教の布教が入り込んでいる。イスラムとの、戦いである。世界は、イスラムに傾いている。巻き返しを行っている。

私は言う。決して、キリスト教によって、救われることはない。混乱を招くのみである。