木村天山旅日記

遥かなる慰霊の旅 平成19年11月1日

第一七話

 

生きるとは何か。

それに対するに、哲学や思想、そして、最後に宗教が出てくる。

 

私は言う。

歴史を、見よと。

 

歴史とは、事実である。決して、自説ではない。事実を見ることによって成るものが、歴史であり、歴史観というものに、騙されてはならない。

また、歴史哲学なるものも、一つの物の見方であり、それも、極めるところ、その者の、自説である。

 

生きるとは、事実である。

歴史という、事実を知ることが、生きるということを、肯定する。

歴史を知らない人は、生きることが出来ない。何故なら、生きるということは、過去と、現在と、未来を包括するものだからだ。

 

歴史は、過去を負う。

過去の事実から、現在の生きるを問う。そして、未来へ向かう。

この過去を、鑑みることなければ、現在を生きることは、難しいし、生き難い。

ただ今の日本の姿を見れば、それがよく解る。

 

一部、自虐史観と言われる歴史認識がある。

戦後の歴史史観が、これに当たる。ほとんど、自虐思考による、歴史認識である。当然、真っ当ではない、国民が出来上がる。

つまり、自虐であるから、生きることも、自虐になる。そして、それを善しとしている者がいる。

誰か。

私は、犯人探しをするものではない。

もし言えば、イデオロギー、思想である。

 

何故、人は、イデオロギー、そして思想に囚われるるのか。

生きるに楽だからである。

 

世界で、平和裏に事を進めようとしても、それぞれの国の価値観により、平和裏が違う。

それの、事実を見ることである。

そして、極めて行けば、それは、イデオロギーでも、思想でもない、その民族性というものが、出てくる。

そして、最後が、人間性である。

 

歴史の行き着くところは、人間性である。

 

生きるということは、歴史を知ることであり、それが、人間性に行き着くということである。歴史は、人間性を現す。

つのり、歴史は、人間というものを見るに、最高の手段である。

 

ここで、長くなるが、一人の僧侶の書いたものから、抜粋する。

しらべ かんが という、佐賀県基山町にある、因通寺の住職であり、タイ現地法人の慧燈財団を建てた方である。

 

今の日本という国は不思議な国となってまいりました。それはシナ事変や大東亜戦争中に、日本軍が行ったと称される蛮行については口をきわめてこれを喧伝し、又進歩的と称されるマスコミ人、或いは同じく進歩的と言われる歴史学者が、日本軍は悪いことをした、悪逆非道の人種であるというように表現しているのでありますが、自分の国のことをこれだけ悪口を言うような国民は他に類例を見ないようであります。それでこうした日本の悪口を言う人達は、殆どが過去の歴史を否定しているのであります。これは東京裁判における日本亡国のシナリオが形を変えて進行していると申してもよろしいのです。進歩的文化人達が日本亡国を望んでいるなら、それはそれとして思想ではなく行動として現せばよいのであります。しかし決してこの進歩的文化人というのは行動して表現するのではなく、ペンや言論によって日本を亡国の方向へ導いているのであります。・・・

 

そのよい例が、昭和20年8月から、翌年に起こった、世界史上、最も悲惨で、蛮行と言われるべき、満州において行われた事実である。

ソ連の蛮行である。

あまりに悲惨で、その内容は、省略する。

それに関しては、進歩的文化人達は、何も言わない。それは、共産主義の多大な影響を受けているからである。

更に、東京裁判という、茶番な、戦勝国が、敗戦国を裁くという、裁判が拍車をかけた。

 

歴史を観るということは、それ以前をも、視野に入れて、観るということである。

 

第二次世界大戦が始まった原因は何か。

それは、それ以前の歴史に隠されている。

そして、その隠されたものは、さらに、それ以前に隠されている。

 

何度も言うが、事実を見ることである。

一つのイデオロギー、史観を持ってみれば、誤る。

この、誤ることを、今も続けているのが、日本の状態である。

 

そして更に言う。

天皇の存在における、大きな誤解と、解釈の誤りである。

 

敗戦後に、昭和天皇は、全国を行幸された。

 

一つだけ、象徴的な出来事を書く。

しらべ かんがさんの、因通寺に天皇陛下が行幸された時の事である。

戦争によって、孤児となった子供たちを収容する、洗心寮のある因通寺を天皇自らが、希望しての、行幸である。

 

当時の、基山町では、その行幸に冷ややかなものだったという。それは、多く、共産主義思想に、影響された者、多々いることからだった。

 

昭和24年から、25年、26年は、世相が混沌としている時期である。

第一次そして第二次帰還兵の中に、日本改造を主張する者も多々いた。

更に、天皇戦争責任ありという者も多々いた。

基山町の周辺も、そのような人々がいた。天皇行幸に反対する勢力もあった。故に、冷ややかな対応である。

加えて、日教組である。今は、日教組に関しては、省略するが、ご覧の通り、日本の教育を握る先生たちの、組織である。組合員の一人一人は、人の子であり、人の親である。一人一人に言うことも無い。ただし、組織となれば、違う。

言語同断に誤っている。

 

実に感動的な、天皇陛下との出会いをして、慰められ、励まされた町の人々であった。戦争孤児の一人一人も、天皇のお言葉に、救われたのである。

 

その様を書けないのが、残念だ。

 

最後に、引揚者と書かれた場所である。

そこには、若い青年壮年の一団がいた。

彼らは、そこで、天皇の戦争責任を問い詰め、陛下が、責任を回避する発言があるならば、暴力を持っても、責任を問うつもりだった。

更に、天皇が責任を認めた場合、即座に、全国に知らしめて、日本全国で蜂起し、日本を共産主義国家に持ち込む手はずだった。

 

その一団の前に立たれた天皇の、お言葉である。

「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変であっただろうと思うとき、私の胸は痛むだけではなく、このような戦争があったひとに対し深く苦しみを共にするものであります。皆さんは外国においていろいろと築き上げたものを全部失ってしまったことであるが、日本という国がある限り、再び戦争のない平和な国として新しい方向に進むことを希望しています。皆さんと共に手を携えて新しい道を築き上げたいと思います」

 

長い言葉をかけられてた一団は、慈愛に満ちたお言葉に、感動した。

 

天皇の人柄を瞬時に理解したのである。

その時、一人の引揚者が、膝を動かし、にじり寄って、陛下の前に出た。

溢れる言葉が出た。

天皇を恨んだこともある。しかし、苦しんでいるのは、私一人だけではない。皆が皆苦しんでいる。そこから、希望を持って生きようとする時、天皇陛下も苦しんでおられると知り、本日から世の中を呪う事はしません。天皇陛下と共に、頑張ります。

 

それから、一人の青年が泣き出し、次から次と、泣き出した。

一人の男が言った。

こんなはずではなかった。俺が間違っていた。

 

陛下は、その場を立ち去り難く、動かない。それを見た、侍従長が陛下を促されたという。

 

天皇が、マッカーサーと会談された時のことも、秘められているが、天皇が、それを望んだ。

それは、この身は、どうなってもいい、国民を救って欲しいとの願いであった。

マッカーサーは、亡命を希望するために、来たと思っていた。が、その天皇のお言葉に、襟を正し、最敬礼したのである。

そして、翌日、アメリカに飛び、日本の支援を政府に要求したのである。

その時の天皇陛下のお言葉を、すへで書くには、忍びないゆえ、省略する。