木村天山旅日記

遥かなる慰霊の旅 平成19年11月1日

タイ旅行から戻り、思う

タイ旅行を終えて、その様を、書いた。

追悼慰霊、ミャンマー入り、コンサートが、主たる目的であった。

 

全く、今は未知なる活動ではあるが、毎年の慰霊、そして、コンサート開催により、目に見える形で、成果を上げることになると思う。

日本語の無料セミナーも、その間に、開催したいと思う。

 

すると、今度は、カンボジア、ラオスに目を向ける。

ラオスは、日本人であれば、12日間は、ビザ無しである。

日本人の入国を、歓迎している。

 

始めて会う人も、会を重ねると、馴染みになり、そして、友人になる。

何より、イデオロギーの布教ではない。

支配することも、されることもない、対等の付き合いである。

 

民間外交の素晴らしさは、何と言っても、個と個の、付き合いである。

 

日本が、これらの国に、資金援助をしている様を、書けば、キリが無い程になる。

実に、日本の資金に、開発の多くを負っているのである。

日本に援助されて、国の体制を、整えていると、言っても、過言ではない。

 

そして、多くの日本企業の進出である。

それも、書けば、キリが無い。

 

だが、それは、公、政府間の、関わりであり、日本人も、そんな支援を知らない人の方が多いように、あちらの人も、知らないのである。

言えば、驚く。

 

話は、飛躍するが、国際社会で、日本が孤立した場合、最初に、日本に手を差し伸べるのは、アジアの国である。

アジアの国に、多く、戦争時に、迷惑をかけたというが、アジアの国々に、日本は、甚だしい程の資金援助をしている。

中国へなども、富士山より、高い一万円札を支援している。

 

当然として、受け取る国もあるが、感謝して、受け取る国もある。

 

戦争の道を、拓いた日本に感謝する国もあるのである。

何故か。それにより、独立を得たからである。

勿論、建前は、迷惑を受けたというが、である。

 

歴史的事実の意味合いは、一方からのみ、見て、判断出来ない程、複雑な意味を持つ。

 

ベトナム、カンボジア、ラオスにも、日本の民間団体の、ボランティア活動が、行われている。個人的に、偉業をする方もいる。

それらの人の活動により、日本に対する、イメージは、非常に良い。この、良いということが、後々、つまり、千年単位で考えると、大変な価値なのである。

今、今のことではない。

 

それらの人は、皆、心の命ずるままに、行っている。

 

タイ北部でも、20程の団体が、様々な活動を行っているという。

チェンマイの総領事は、それらの、横のつながりを作りたいと言う。

さらに、タイ北部は、追悼慰霊の地である。

ある種、巡礼の地でもある。

 

私は、追悼慰霊の巡礼の地ということを、さらに、推し進めて行きたいと思う。

 

これから、バリ島での日本セミナー開講を手始めに、多くの事を、考えている。

それは、最早、私一人では、物理的に無理なことである。

だが、あえて、仲間を、募ることはしない。

自然発生的に、集うことを、願っている。

 

簡単に言えば、奉仕活動だからである。

 

生活の基盤があり、自立している人が、出来ることである。

そして、その、心である。

命じる、心、の、有り様である。

 

私は、もう、観光旅行をする、気持ちは全く無い。

旅行は、すべて、目的のあるものである。

その目的は、千年の日本に、出来ることである。

 

千年の日本とは、未来の日本に出来ることである。

これは、私の信条であり、他の誰にも、強制することは、勿論、説くこともない。

 

追悼慰霊は、過去の問題である。

しかし、それは、未来へ続く。

過去に対する行為が、未来へと、続くのである。

 

それは、行為して、始めて解ることである。

異国の地で、亡くなった人の慰霊をする、日本人の姿は、かの国の人を、信用にたる人間であると、認識させる。

最も、それは、霊的存在の有ることを、知るゆえの行為であることが、前提である。何故なら、彼らは、霊的存在の有ることを知るからである。

 

単なる、儀式の慰霊ではないということである。

 

私の祈りを、かの国の人も、求めるということになる。

決して、布教をする者ではない。

 

心に、響くからである。

 

私が、神道の天照大神を、布教するという、愚かなことをしないからである。

 

タイでも、日本の新興宗教の布教をする、団体が多い。が、それは、実に、愚かなことである。

タイは、仏教が、伝統である。

同じ、仏教だからと、日本の大乗系の仏教の新団体が行くという、愚かさである。

 

キリスト教のような、過ちを犯すのである。

 

イデオロギーの布教は、百害あって、一理無しである。

 

それは、必ず対立を生む。

 

私は、日本の伝統を持って望む。

日本の伝統は、たゆたう、心であり、それは、今の言葉にすると、曖昧である。

実に、曖昧であるということ、見事な精神である。

郷に入っては、郷に従うのである。

 

タイから、戻り、更にタイでの、活動を考えて、次へのステップを踏む。

テラの会という。

テラは、地球である。

 

そして、アマテラスの会である。

アマテラスは、太陽である。

しかし、今、暫くは、この言葉を使用しない。

アマテラスという言葉、神という言葉に限定されるからだ。

 

太陽は、大和言葉で、天、アマ、照、テラス、というのである。