木村天山旅日記

バリ島へ 平成19年12月

第二話

食事は、自然に、大勢になった。

マディさんの家の、オープンな居間には、10名ほどが集った。

丁度、日本から来ていた、クミちゃんの、友人も、一緒になった。私たちのコンサートを聴きに来たというから、驚く。

バリ島で、ヨガの講習に来たそうである。何と、私たちと、同じ飛行機に乗っていた。

 

食事を終えて、バリコーヒーを飲み、開演時間の30分前に、テラハウスに行くと、すでに、お客さんが集っていた。子供たちもいる。近所の子供たちである。

 

私は、待たせるのも悪いと、野中に、イダキ演奏をしてもらった。

前座である。

どんどんと、人が増える。

今回は、クゥッ村の人を招いて、テラハウスのお披露目という意味のコンサートだっだが、日本人も、多く来た。

 

開演前だが、ギターソロ演奏も、開始した。

 

蝋燭の光が、また、何とも、風情がある。

舞台には、一つの裸電球である。そして、舞台のし切りに、小さな電球の縄である。

日本の田舎のお祭りという感じである。

 

いよいよ、開演時間になり、トップは、辻知子の、歌である。

バリ島の一角で、日本のコンサートである。不思議な感覚だった。

 

プログラムは、臨機応変にしようというアイディアで、進んだ。

通訳無しで、私は日本語で、進めた。

 

次に、カウンターテナーの野村さんの、アカペラ二曲である。

男の、高い声に驚いたのか、シーンと聴いている。

 

野村さんは、子供たちを意識してか、プログラムにはない、聞き覚えのある、歌を歌った。すると、子供たちが、小さな声で、反応した。

 

その頃になると、更に、お客さんが増えた。

用意していたイスが、一杯になる。

日本人の高齢の方も来た。

ハウスに、敷いたバナナの葉のゴザにも、人が一杯になった。特に、子供たちが、後ろに一杯になる。

 

私が、ギター伴奏で、二曲歌う。

虫の音をバックして、ギター伴奏である。

ところが、声が響くから驚く。

自分でも、その響きを、聴くことが出来た。

 

そして、再度、野中のイダキソロ、ギターソロと、続く。

ギターソロの、スペイン民謡になると、自然手拍子が入る。

矢張り、リズムと、テンポは、世界共通である。

 

闇が深くなると、蝋燭の光が、強くなる。

 

間合いに、子供たちの話し声が入り、何とも、楽しい。

 

再び、辻知子が、今度は、アカペラで、故郷、さくらを歌う。

バリ島で聴く、故郷と、さくらさくらは、また、格別である。

その、単純なメロディーは、バリ島の人の心も、動かすようだ。

 

日本人のお客さんは、じっと舞台を凝視している。

長期滞在の人は、懐かしい気持ちなのだろうと、察した。

 

また、野村さんが、ミュージカル曲を歌う。

英語の歌詞は、バリ島の人も理解する。

 

学校では、小学生から、英語か、日本語を選んで学ぶのである。

20代の人は、ほとんど英語を理解する。

それは、20年ほど前から、アメリカ人の女性が、無料で、ウブドゥの子供たちに、英語を教えたせいもある。

彼女は、今は高齢になったが、ウブドゥに住み続けて、村の人の世話を受けて生活している。

 

バリ島には、日本語学校も、多く出来たが、そこに行ける人は、お金のある人である。私は、テラハウスで、無料日本語講座も開催する予定である。

日本語を覚えると、仕事もある。収入も多くなるのである。

貧しい子供は、学校に行けない子もいるという。

 

例えば、マディさんの収入は、奥さんが働く、500,000ルピアであるが、教育費に、400,000ルピアが飛ぶ。

クゥッ村の男は、皆、絵描きである。そして、田んぼなどの、農作業をする。

絵は、売れなければお金にならない。

いつ、売れるか、解らない。

米は、自分で作るので、食べることは出来るが、それ以上の生活は、お金が必要である。

故に、奥さんが働く。

 

ちなみに、500,000ルピアは、約、6,000円である。

平均的収入は、日本円で、一万円程度である。

それでは、生活が、出来ない故に、チップで、補う。

私は、チップは、貰った人のものだと、思っていたが、違った。

同じ職場の人は、チップを皆で出して、それを、分け合うという。相互扶助である。

 

それで、驚くことは、10年前から、給料が上がっていないということである。しかし、物価は、二倍、三倍、それ以上になっているという。

ここに、大きな問題がある。

つまり、搾取である。

誰か。

経営者は、すべて、アメリカ、オーストラリア、ドイツ、中国、そして、日本人である。

 

安い労働力を使い、皆、ぼろ儲けをしている。

労働組合も無い。

結果的に、これは、政治の問題である。

しかし、これを書くと、終らなくなるので、後で、書くことにする。

 

いよいよ、コンサートも佳境である。

ギターソロで、再び盛り上げて、私が、万葉集の朗詠をした。

これは、クミちゃんが、日本人の人に、万葉集の歌を歌うといったというので、取り入れた。

二首を朗詠した。

持統天皇と、大伴家持の歌である。

 

それが、バリ島の夜に、ぴったりと合った。

虫の音の響きに、唱和した。

 

そして、最後に、バリ人も知るという、日本の歌である。

色々あったが、タイのチェンマイでも歌った、昴を歌う。

 

日本人歌手の歌を知っているバリ人は、多い。それも、日本語で歌うから、驚く。

長渕の乾杯を歌った、27歳の、ビーチを仕事場にしているガイドには、驚いた。

カラオケで、覚えるという。

日本では、流行しない歌も、バリ島では、流行っていたから、更に、驚いた。

 

コンサートが終ると、日本人の方が、挨拶に来てくれた。

バリ人も、名残惜しく、中々腰を上げない。

子供たちも、残っていた。

 

夜遅いと心配したが、クミちゃん曰く、眠くなったら、帰るから、と。

用意していたお菓子を食べて、子供たちが、輪になっている。

 

私も、そこに入り、一人一人の名前を聞いた。

誰かが、子供たちに、バリの歌を聴かせてと、言う。

恥ずかしがっていたが、二人の子供が、大きな栗の木の下でと、日本語で、歌うから、驚く。

学校で、習うという。

まだ、小学生である。

その子供たちは、翌日の、クゥッ村の集会所の、ガムラン、バリ舞踊の公演にも来ていた。外国人は、有料だが、バリ人は、無料である。

 

子供たちは、自然に伝統文化に触れて、やりたい子供は、見て覚えるという。

お金は必要ない。

誰もが、出来るのである。

 

入場料は、皆、村の資金になり、その伝統文化のために、利用する。

日本のように、家元などいない。団長がいて、取り仕切るが、皆、名誉職である。

それで、生活を立てることはない。

舞踊家はいるが、職業ではない。

それは、伝統なのである。

ただ、舞踊のみで、生活を立てる人も出ているようである。