木村天山旅日記

トラック諸島慰霊の旅 平成20年1月

第二話

飛行機が、着陸すると、一人の男が、おじさんである、が、声を掛けてきた。

野中が話をした。

慰霊のために来たというと、どこですると聞く。

海上でと言うと、それなら、協力するということになり、彼は、名刺を取り出し、電話番号を書いた。

それでは後で、連絡するということで、私たちは、入国審査に向かった。

 

その、いかつい、おじさんは、大きなダンボールを担いでいた。グアムで、物を仕入れて来たのであろうと、察した。

 

平屋の鰊番屋のような、建物だった。

入国審査は、すぐに済んだ。

日本人は、私たちの他に、三人のダイバーがいた。

その三人とは、送迎の車で、一緒だった。

話はしなかった。

 

ホテルまでの道路である。

舗装されているところが、少ない。後は、ボコボコである。

大きな、水溜りもある。車は、大きな穴と、水溜りを避けて走る。

州都のある、島である。にもかかわらずの、道路である。

島の経済状態が、解るというもの。

 

最初に、私たちのホテルに、到着した。

チューク諸島の、ここは、モエン島、日本名、春島である。

モエン島には、二つのホテルがある。

もう一つ、ホテルの名があるが、現在のホテルは、二つだけなので、閉鎖しているのかもしれない。

 

料金は、私たちのホテルの方が安い。といっても、最低でも、一泊105ドル、一万円以上であるから、島の人から見ると、破格の金額である。

 

朝の11時頃である。

 

大きな、ベッドが二つある、また、大きな部屋だった。

テラスからは、海が見える。

しかし、安いのは、理由があった。

エアコンの室外機の音である。それで、ホテルのすべてのエアコンを、まかなっている。

ただ、その音には、慣れた。

それに、波の音が混じり、何とも不思議な音のハーモニーになった。

 

タイパンツと、Tシャツに着替えて、昼の食事のために、出かけることにした。

一番、心配していた、海上慰霊の準備が、思わぬところで、叶ったので、安心した。

 

空港から来た道を、歩いた。ホテルから、空港へ向かう道が、街である。

品揃えの少ない、小さな店、倉庫のような、スーパー、カトリック教会があり、私たちは、教会に、入った。

 

飾り気の無い聖堂である。

島には、カトリック、プロテスタントの教会のみ。島民は、100パーセント、キリスト教徒である。

キリスト教の歴史は長い。

スペインが、ミクロネシアに、来航したのが、1500年代である。

それから、統治の歴史がはじまる。

1886年に、スペインは、マリアナ諸島、カロリン諸島を含み、領有権を、宣言する。

 

当然、カトリックの信仰を持ってきた。

 

1899年に、スペインは、ドイツに、ミクロネシアの島々を売却する。

島には、スペイン人の血と、ドイツ人の血が入る。

 

統治、売却も、完全勝手な解釈である。

 

1914年に、第一次世界大戦が始まり、日本が、現在のミクロネシア連邦、パラオ、マーシャル、北マリアナを含む、ミクロネシア、南洋群島を占領する。

さらに、1920年には、国際連盟から、日本の委任統治が、認められる。

1945年の太平洋戦争終結まで、日本の統治下にあった。

おおよそ、30年間である。

 

チューク諸島の人々の、九割は、混血である。

最も多いのは、日本人である。

今は、その子、孫、ひ孫がいる。

 

私たちは、孫、ひ孫の人に、多く逢い、話を聞くことが出来た。

 

教会を出て、また、歩いた。

 

港の前の市場の前を通る。

だが、市場といっても、三枚ほどの板の上に、品物を乗せているだけである。

驚いたのは、海のものでは、カニだけである。

魚がないのである。

椰子の実、バナナ、ハバナの葉で包んだもの、花飾りという、程度である。

 

一人の、ばあさんが、私に、カニカニと言って、売ろうとする。

しっかりと、葉に包んでいるカニは、立派だった。

 

漁師の小屋が、立ち並ぶ。

港を眺めて、進んだ。

レストランなど、あるような雰囲気ではない。

 

港の外れの、倉庫のような、スーパーの前に来た。

その前に、レストランの文字がある。

オープンという看板が、掛けてあるので、そこに入ることにする。

 

韓国料理の雰囲気であるが、メニューを見ると、アメリカンが多い。

一番無難な、ハンバーガーを頼む。

私は、日本では、決して食べない。

 

その時、対応してくれたおばさんが、ツゥジィーさんという方である。

その方が、多くの情報を提供してくれた。

その母親が、日系一世であった。

六人兄弟の一番下の、娘だったという。

 

ツゥジィーさんは、時々、私たちの部屋に来て、アイスティーを、注いでくれた。

そのうちに、色々と、話が、始まった。

 

ツゥジィーさんが、子供の頃、そして、母親の時代、さらに日本統治時代と、戦争、戦後の話になった。

私たちは、身を乗り出して聞くことになる。