飛行機が、着陸すると、一人の男が、おじさんである、が、声を掛けてきた。
野中が話をした。
慰霊のために来たというと、どこですると聞く。
海上でと言うと、それなら、協力するということになり、彼は、名刺を取り出し、電話番号を書いた。
それでは後で、連絡するということで、私たちは、入国審査に向かった。
その、いかつい、おじさんは、大きなダンボールを担いでいた。グアムで、物を仕入れて来たのであろうと、察した。
平屋の鰊番屋のような、建物だった。
入国審査は、すぐに済んだ。
日本人は、私たちの他に、三人のダイバーがいた。
その三人とは、送迎の車で、一緒だった。
話はしなかった。
ホテルまでの道路である。
舗装されているところが、少ない。後は、ボコボコである。
大きな、水溜りもある。車は、大きな穴と、水溜りを避けて走る。
州都のある、島である。にもかかわらずの、道路である。
島の経済状態が、解るというもの。
最初に、私たちのホテルに、到着した。
チューク諸島の、ここは、モエン島、日本名、春島である。
モエン島には、二つのホテルがある。
もう一つ、ホテルの名があるが、現在のホテルは、二つだけなので、閉鎖しているのかもしれない。
料金は、私たちのホテルの方が安い。といっても、最低でも、一泊105ドル、一万円以上であるから、島の人から見ると、破格の金額である。
朝の11時頃である。
大きな、ベッドが二つある、また、大きな部屋だった。
テラスからは、海が見える。
しかし、安いのは、理由があった。
エアコンの室外機の音である。それで、ホテルのすべてのエアコンを、まかなっている。
ただ、その音には、慣れた。
それに、波の音が混じり、何とも不思議な音のハーモニーになった。
タイパンツと、Tシャツに着替えて、昼の食事のために、出かけることにした。
一番、心配していた、海上慰霊の準備が、思わぬところで、叶ったので、安心した。
空港から来た道を、歩いた。ホテルから、空港へ向かう道が、街である。
品揃えの少ない、小さな店、倉庫のような、スーパー、カトリック教会があり、私たちは、教会に、入った。
飾り気の無い聖堂である。
島には、カトリック、プロテスタントの教会のみ。島民は、100パーセント、キリスト教徒である。
キリスト教の歴史は長い。
スペインが、ミクロネシアに、来航したのが、1500年代である。
それから、統治の歴史がはじまる。
1886年に、スペインは、マリアナ諸島、カロリン諸島を含み、領有権を、宣言する。
当然、カトリックの信仰を持ってきた。
1899年に、スペインは、ドイツに、ミクロネシアの島々を売却する。
島には、スペイン人の血と、ドイツ人の血が入る。
統治、売却も、完全勝手な解釈である。
1914年に、第一次世界大戦が始まり、日本が、現在のミクロネシア連邦、パラオ、マーシャル、北マリアナを含む、ミクロネシア、南洋群島を占領する。
さらに、1920年には、国際連盟から、日本の委任統治が、認められる。
1945年の太平洋戦争終結まで、日本の統治下にあった。
おおよそ、30年間である。
チューク諸島の人々の、九割は、混血である。
最も多いのは、日本人である。
今は、その子、孫、ひ孫がいる。
私たちは、孫、ひ孫の人に、多く逢い、話を聞くことが出来た。
教会を出て、また、歩いた。
港の前の市場の前を通る。
だが、市場といっても、三枚ほどの板の上に、品物を乗せているだけである。
驚いたのは、海のものでは、カニだけである。
魚がないのである。
椰子の実、バナナ、ハバナの葉で包んだもの、花飾りという、程度である。
一人の、ばあさんが、私に、カニカニと言って、売ろうとする。
しっかりと、葉に包んでいるカニは、立派だった。
漁師の小屋が、立ち並ぶ。
港を眺めて、進んだ。
レストランなど、あるような雰囲気ではない。
港の外れの、倉庫のような、スーパーの前に来た。
その前に、レストランの文字がある。
オープンという看板が、掛けてあるので、そこに入ることにする。
韓国料理の雰囲気であるが、メニューを見ると、アメリカンが多い。
一番無難な、ハンバーガーを頼む。
私は、日本では、決して食べない。
その時、対応してくれたおばさんが、ツゥジィーさんという方である。
その方が、多くの情報を提供してくれた。
その母親が、日系一世であった。
六人兄弟の一番下の、娘だったという。
ツゥジィーさんは、時々、私たちの部屋に来て、アイスティーを、注いでくれた。
そのうちに、色々と、話が、始まった。
ツゥジィーさんが、子供の頃、そして、母親の時代、さらに日本統治時代と、戦争、戦後の話になった。
私たちは、身を乗り出して聞くことになる。
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