木村天山旅日記

トラック諸島慰霊の旅 平成20年1月

第九話

見渡すと、バラック小屋が多い。

手作りの小屋である。

 

野中の後を、歩いた。

昨日来たと言う、村に向かっている。

 

まず、昨日ご馳走してくれた、村の主の家に行く。

丁度、主人が寝ていた。

声を掛けると、家族皆が、出てきた。

野中が、お礼を言い、プレゼントを持ってきたと言うと、食べ物かと、問う。

私たちは、タバコを五箱買っていた。

現地のタバコである。

それでも、喜んで、受け取ってくれた。

息子と思える男の子から、小さな子まで出て来たので、写真を撮る。

 

再び、道路に出て、先を歩いた。

ガイド役をしてくれた子の家に向かった。

ところが、野中の記憶が、曖昧で、立ち止まった。

 

その時、声を掛けられた。

コーヒー、コーヒーと言う男がいる。

野中は、声を上げた。昨日逢った男だった。

 

私たちは、コーヒーを頼んだ。

一杯、25セントである。集った人にも、ご馳走することになり、四つ、注文した。

男は、そこに、腰掛けてくれと言う。

手作りの、棒で出来た、椅子である。

横には、子供が、裸で寝ていた。

 

どんどんと、人が集まってくる。子供たちも来た。

 

私は、パンを食べようと、袋から取り出すと、野中が、まず、こちらが食べてから、皆に渡すといいと言う。

そのようにした。すると、渡した者が、他の者に、分け与えるのである。

子供にも、渡す。すると、その子は、他の子に、半分、分け与える。

それが、自然なのである。

こんな、風景は、見たことがない。

 

私は、すべてのパンを、皆に与えた。それが、次々と、人から人へと、渡るのである。

こういう、礼儀は、自然に出来上がったものなのだろう。

 

その内に、ガイド役の子が来た。ジュニオという、名だった。

13歳で、小学校の七年生である。日本だと、中学一年生である。

だが、日本の子供より、小さい。日本の10歳程度の子供のようだ。

 

野中が、ジュニオに、Tシャツを渡す。

ウァーと、声を上げて喜んだ。

さらに、私のものも、渡す。

ジュニオは、二枚のTシャツを、両肩に掛けた。

 

その間にも、子供たちが、大勢、集ってきた。

 

コーヒーを飲み、主人と、話をした。

その中で、私は、子供服などは、どうしているのかと、訊いた。

無いという。

確かに、小さな子は、裸だった。

お金が無いので、皆、出稼ぎに行っている家族や親戚から、送ってくるのである。

 

着の身着のままである。

 

私は、次に来る時、子供服を持ってくると言うと、近くにいた、大人が、皆、お礼の言葉を言う。それが、本当に、心ある言葉なのである。

意味がよく解らないが、何を言うのかは、理解した。

 

主人が、村を案内すると言う。

そこで、私たちは、お願いした。

しかし、それがまた、大変なことになるのだ。

 

山の中を行く。道無き道を行くといった、感じである。

子供たちも、着いて来た。

彼らには、当たり前だが、私には、山道である。

すぐに、汗だくになった。何度も、着物の、袖で、汗を拭いた。そして、また、汗が出る。

 

遂に、山の上まで来た。

そこにも、家があるという、驚き。

そして、山の上の風である。その、心地の良さは、格別だった。

その家の、おばあさんが、木の元に、ゴザを敷いて、寝ていた。

 

私たちが行くと、起き上がり、笑顔で挨拶する。

すぐに、日本人だと、解ったのは、私の着物である。

 

歓迎に、小さなミカン、日本で言うと、カボスに似たものを、出してくれた。

それは、酢のように、すっぱい。

皆で、それを、食べた。

その家の子も、出て来た。

 

暫くすると、その家の子が、主人に何か言う。

向こうに、日本軍の大砲があるというのだ。それを、私たちに見せたいと言う。

 

野中が、着物で、行けるかと、訊くと、大丈夫だと言う。しかし、付いて行くと、そこは、ジャングルである。

引き返すことも出来ず、私は、皆に付いて行った。

 

だが、主人も、子供たちも、兎に角、親切である。

足場の悪いところを、整えて、私を歩かせる。手を取る子もいる。

 

漸く、日本軍の要塞を発見し、大砲を見た。

 

その付近には、大きな穴が多くあった。攻撃された跡だと言う。

 

肩で、息をしつつ、写真を撮った。

そして、そこからの眺めである。絶景だった。

 

子供たちには、山が、庭のようなものである。

その有様にも、感動した。

 

大砲に上がる子供たちである。

誘われたが、私は、上がらなかった。

下から、見上げるだけである。

戦争当時の様を、想像した。

ここで、毎日、敵を発見しては、攻撃していたのであろう。

山の上に、要塞を築き、大砲を設置しての、苦労を思った。

 

そして、戦争とは、何と無益なことかと、溜息をついた。

 

また、誰も日本人が、こんな所まで来て、見ることは、ないだろうと思えた。

貴重な資料である。

 

暫くして、戻ることにした。

子供たちの身に軽さは、脅威であった。

しかし、私を先に先にと、歩かせる。

必ず先導する子がいる。

 

最初の山の上に戻った。

 

私は、子供たちの人数を訊いた。

七名である。

一人、二ドルを渡すことにした。

一人の子に、それを渡すと、その子は、満面の笑みを浮かべた。

感謝の気持ちである。

そして、主人には、案内のお礼として、20ドルを渡した。

 

少し休み、下山することにする。

主人が、折角なので、私の家族に会ってくれと言う。

私は、オッケーと、答えた。

 

主人の家は、山の中腹にある。

奥さんが、赤ん坊を抱き、二人の娘がいた。

一間の小屋で生活している。

どんな風に寝ているのか、想像がつかないのである。

 

実に、貴重な体験をして、私たちは、皆と、別れた。

 

ジュニオだけは、ホテルまで、着いて来ると言うので、三人でホテルへの道を歩いた。