ジュニオを連れて、ホテルに戻り、着替えて、ツゥジィーさんの店に向かった。
ツゥジィーさんが、出迎えた。
ジュニオに対しても、別段不思議な顔は、しない。
通常、島の人は、入らない店である。
二人は、顔馴染みである。島の人は、ほとんど、知り合いである。
注文した、ハンバーグがくるまで、ツゥジィーさんと、ジュニオが、現地語で、話している。
内容は、解らない。
ツゥジィーさんが、英語で、言った。
先日、亡くなった、17歳の男の子がいた。
声が出なくなり、食べ物が、喉を通らない。島の病院、グアムの病院、ハワイの病院に行ったが、原因不明で、戻って来て、亡くなった。
彼女は、ブラックマジックにかかったのだと言う。それを、二人で、話していたのだ。
ブラックマジックは、誰でも、かけられる。そして、誰でも、それを、解くことが出来るという。
草木の新芽を使い、それを、煎じて作るらしい。
その17歳の男の子の、親が、熱心なクリスチャンであった。
それで、島の方法を、申し出た人が、多くいたが、断り、死んでしまったのだという。
ブラックマジックも、その解き方も、悪魔のものだというのだ。
だが、母親は、彼を葬る時に、アイムソーリィと、何度も泣いたという。
ツゥジィーさんは、ブラックマジックは、必ず解けるという。
ツゥジィーさんが、一度部屋を出ると、ジュリオが、ブラックマジックの掛けるのを、見たことがあると言う。そして、私たちに、それを、再現してくれた。
人が寝ている時に、それを、行うという。そして、舌をレロレロレロと、口から出し入れし、呪文のように、アワアワアワアワと、と唱えるという。
その、ジュリオの表情が、おかしくて、私は笑いそうになったが、我慢した。
それをする、ジュリオ自身が、白目を剥くのだ。
野中は、風土病だという。
だから、島の草木の新芽を使って、直すのだという、意見である。
私は、それもありであり、もう一つは、島にある、元の信仰形態を知りたかった。
しかし、ツゥジィーさんも、ジュリオも、それを、知らないという。
バリ島のように、元からある、神様である。その名前だけでも、残っているはずだが、矢張り、キリスト教の支配に入り、それが、霧散してしまったのだろう。
1500年代の、スペイン統治の前には、何らかの、土着の信仰形態が、あったはずである。
二人は、ブラックマジックを解けば、彼は、死ななかったという、意見であった。
ツゥジィーさんの、母親なら、土着の信仰を知っているかもしれないと、私は、帰国して、思った。次に、行った時に、それを、聞きたいと思う。
ジュリオは、ハンバーガーを、自然に食べた。
いつも、食べているように、食べた。普段は、決して、食べられないものであるが、不自然さは、なかった。
野中が、ジュリオに、手紙を出したいが、ジュリオの所は、住所がないと、ツゥジィーさんに言うと、それなら、私の所に、送ってくれれば、届けてあげるという。
そこで、ツゥジィーさんの、住所を知ることになる。
島の大半の人には、住所が無いのである。
不思議だ。
それでも、郵便物は、届くという。
知り合いの手から、親戚の手からと、渡り、本人に届くようである。
カルチャーショックである。
いかに、島の人たちが、親しい関係を、築いているかということである。
さて、私は、ブラックマジックについては、バリ島のものも、興味があり、ただ今、調査中である。
例えば、日本人でも、それにかかる人もいるが、かからない人の方が多い。つまり、バリ島の人にのみ、通用する、ある種の、霊的作用であろうと思う。
ホワイトマジックという、それを、解く方法もある。
それが、例えば、祝詞の清め祓いで、解けるかということも、興味がある。
しかし、これについては、省略する。
四人で、歓談していると、時間が、あっという間に、過ぎた。
島が、夕暮れ近くになるので、私たちは、立ち上がった。
今度こそ、本当に、ツゥジィーさんとも、お別れである。
前回、ツゥジィーさんに、また、島に来るかと、問われて、私は、返事が出来ず、曖昧にしていたが、この時、私は、ツゥジィーさんに、来年、また、来ることを、約束した。
慰霊に訪れる日本人が、今は、激減しているのである。
もう、高齢になり、来る人が少ない。
ほとんど、ダイバーのみである。
スィユゥアーゲン、という、ツゥジィーさんの顔が、晴れやかだった。
通りすがりの旅人ではなくなったのである。
知り合いになったのである。
店を出ると、丁度、タクシーが来たので、それに乗り込む。
ホテルで、私と野中が降り、そのまま、ジュリオを村に返した。
運転手には、一ドル50セントを渡した。
通常の三倍の、料金である。
ジュリオとも、これで、最後である。
またねー、という、日本語が通じたようである。
部屋に戻って、私たちは、一息ついた。
随分と、内容の濃い時間だった。
野中が、フロントの女の子と、話に出たので、私は、一人になった。
フロントの女の子も、日系三世である。中村といった。
時給一ドルで、働いている。
信じられない、安さである。
私は、帰り支度を始めた。
夜の11時に、ホテルを出るのである。
深夜便である。
また、グアムで、手荷物検査を受けると、思うと、憂鬱になる。
グアム到着は、朝の三時半頃であり、最も、眠気の強い時間である。
今度は、冷静に、検査官の言う通りに対処しようと思う。
神妙になっている、自分に、笑った。
野中が、戻ってきた。
そして、カメラがないと言う。
ジュニオが、持っているか、ツゥジィーさんの、店に忘れたかである。
ジュニオなら、返しに来ると、思った。
暫くすると、フロントからの電話である。
ジュリオが、やって来た。
野中が、出た。
数名の子供たちを、引き連れている。
私は、野中に、ここに、皆を、呼んだら、いいと言うが、野中は、部屋を、見せない方がいいと言う。
私も、外に出ることにした。
一ドル紙幣を一枚持って、出た。
ジュリアに渡すためである。
今回で、ジュリオは、10ドル程の、収穫を得た。
彼は、父親が車椅子の生活で、必死で、家計を支えようとしている。
それが、痛いほど解る。
子供たちを見送り、私が先に部屋に戻る。
野中が、戻って来て言う。
ジュリオが、二ドル欲しいと言ったらしい。また、カメラも、最初は、解らないと言ったと。それじゃあ、あの店に、取りに行くと言うと、ズボンのポケットから、カメラを取り出して、ここにあったと言った。
本当は、カメラが欲しかったのだと、野中は言う。
そして、子供たちにも、行けば、二ドル貰えると言って、連れて来た様である。
野中に、みんなに、二ドルくれと、いったらしい。
野中は、お金は、木村が持っている。自分には無いと言ったと、言う。
野中が言う。
金があると、見ると、こういうことになる、と。
確かに、ある人から、貰うというのは、彼らには、当たり前のことである。
私は、それで、気分を悪くすることはなかった。
結果的に、カメラが、戻り、良かったのだ。
夜の九時である。
私たちは、ホテルのレストランに入り、最後の食事をした。
ビーフのミンチを、チーズで、くるんでいるような、実に、後味の悪いものだった。
本日の、お勧め、ディナーである。
一人、約10ドル。
飲み物は、水にした。
部屋に戻る。
野中が、急いで、帰り支度をする。
野中が、荷物を持って、部屋を出た。
フロントの女の子と、話すためである。
私は、時間まで、部屋にいた。
私が、一階に下りると、いよいよ、迎えの車が来た。
旅行会社に委託されている、現地の旅行会社の方である。
現地生活、20年という女性だった。その、旦那さんは、30年の現地生活であった。
彼女から、車の中で、島のことを、聞いた。
私が、感じたことを、確認するようだった。
そして、産経新聞の記事のことにも、触れた。
取材を受けたのだと言う。
それは、産経新聞の記者ではなく、JOCAの人だと言う。
独立行政法人である。青年海外協力隊などを、出している団体である。
産経新聞は、その文章を元に、記事を書いた。
つまり、記者は、取材に来ていない。
そして、それは、非常に偏狭なものだった。
そのように、書くことも出来るが、状況を誤って、理解しているというものだった。
どうしても、遺骨を、見世物にしているという、発想なのである。
確かに、遺骨は、見ることが出来るが、そこまで、見るということは、前にも書いたが、ダイビングでも、相当の経験者である。
それで、果たして、見世物にしていると、言えるのかということである。
遺骨の多くある場所を知る、案内人もいる。
そして、それは、案内するという、仕事であるから、お金を得る。見世物にして、チップを取るという感覚ではなく、それが、仕事なのである。
それを、チップを得て、遺骨を見せるという表現にも出来るということだ。
微妙な、表現の違いである。
ただ、基本的に、そのようなことは、無いと、彼女は言う。
私も、ダンピングショップの人から、聞いた話では、微妙に、ニュアンスが違うと、感じた。
だが、産経新聞の記者は、見世物にされているという、前提の元に、記事を書いたといえる。微妙な、ニュアンスの違いであるが、私は、それは、行き過ぎた書き方であると、判断した。
慰霊を終えた私には、更に、遺骨の、問題ではなくなっていた。
遺骨は、抜け殻である。
その、霊、魂は、すでに、次元を異にしている。
彼らも、後は野となれ山となれ、なのである。
出国審査を終えて、搭乗ロビーに出た。
再び、この島に来ると、信じた。また、やるべきことが、一つ増えたのである。
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