ミクロネシア チューク諸島 戦没者海上慰霊 その2

平成20年1月24〜28日


夏島を目の前に臨む海上で、慰霊の所作を行います。まさにこのボートの下の下の海の底に、たくさんの御霊が眠っていると思うと、自然と、ありがたい、という気持ちが起こってきました。木村天山の向こう側に見えるのは竹島です。


 夏島に向かって祈ります。かつて日本統治の中心となった島でした。私たちの友人である女性の、祖父の兄にあたる方はゼロ戦乗りで、チューク島に配備されていました。

 米軍が襲来し、島の滑走路から出撃、ただちに撃墜され、パラシュートで脱出しましたが、太ももから上向きに敵弾に貫通されており、山の中腹の木の枝にひっかかって絶命されました。木村天山の額のまえにある山が、その方の最後の場所と思われます。享年22歳、英霊は靖国神社に祀られております。


 この夏島を中心に、すさまじいばかりの戦闘が行われました。連合国軍の反攻の激しくなってから、大本営は絶対国防圏を設定し、よりせまい範囲で作戦を展開しようとしました。その範囲からチューク(トラック)島は外されていました。しかし、海軍は是が非でもトラック島を守備しようとします。その海軍のたっての希望におされて、やがて陸軍もトラック島死守の立場にたちます。そして悲劇は起きたのです。

 日本人入植者と結婚した曽祖母を持つ、日系人の女性からききました。終戦直前、かつて栄えていた夏島は、米軍の空襲と艦砲射撃で見る影もなく荒れ果て、食べ物は何もなく、軍人も入植者も、チューク人も飢えに苦しみ抜きました。米軍が上陸してからは、ブルトーザーでわずかに残った畑も破壊され、道路も滅茶苦茶にされました。そのまま夏島は歴史の表舞台から消え、アメリカ統治時代が来ると、中心は近くのモエン島に移されました。



 夏島には、日本人だけではなく、当時日本の植民地であった外地から来たと思われる、沖縄人、朝鮮人、また中国人も住んでいたそうです。

 かつて日本領だったというと、十把一絡げに横暴な旧日本軍の不当支配というイメージを持つ人もいますが、忘れてはならないのは、軍人が支配するよりも先に、そこに住み、生活していこうとした入植者がいたということです。

 終戦前後に起きた、島民虐殺など、耳をおおわんばかりの陰惨な事件の話もききました。みんな飢えていて、通常の精神状態は保てなかったのでしょう。

 しかし、帝国軍人の名誉のために、これだけはいっておかなければならないと思うのですが、そういった現地人迫害に、軍人は関与しなかったということです。

 当時生きていた第一証言者が言うのだから、確かなことでしょう。むしろ夏島島民の口からは、日本統治時代はよかったと、在りし日の栄華を懐かしむ話ばかりききます。

 あの時代を知る人が高齢化する今、誰かが語り伝えなければならない物語があります。

 慰霊を終え、日本から持参した日本酒と、港で買った花束を手向け、潜水艦につながるブイからロープをほどいて、モエン島にもどりました。


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