タクシーが、時間通りに来たが、昨夜の人ではないという。用事が出来て、替わりに来たという。メータータクシーなので、安心して乗る。
高速道路を通り、その料金を払った。
そして、メーターは、200バーツと少しである。ところが、300バーツと言う。
私が、メーターを指して言うが、野中が、帰りの客がいないと、困るんだって、という。
帰りの客がいないことは、無いと思うが、面倒なので、300バーツを払う。
まあ、チップだと、思えばいい。
タイの民間機は、実に、適当である。
搭乗手続きをすると、三時間遅れであると言う。
前回も、チェンマイで、遅れて、日本行きの便に乗られないかもという、事態になったが、本当に、当日になってみなければ、解らない。
決して、信じてては、駄目である。
勿論、帰りも、三時間遅れだった。
結果、四時間を、空港で、過ごすことになる。
新しい空港、スヴァルナプ空港は、国際線、国内線と、入り乱れている。
私たちは、いつも、一階のロビーで過ごす。
人が少なくて、心地が良い。ただし、冷房は、きつい。全体に、冷房が行き渡り、下手をすると、風邪を引く。
私は、外に出て、暑い風を楽しみ、タバコを吹かすのが、好きだ。
漸く、時間になり、搭乗口に行く。
ところが、時間になっても、誰もいない。
また、遅れているようなのだ。
結局、30分過ぎで、案内が流れた。
座席は、自由席である。
私たちは、一番後ろの席に座った。結構、席が空いている。私は、途中で、隣の空いている席で、体を横にした。
一時間程度で、ウドーン・ターニに、到着した。
空港から、国境の町、ノーン・カーイまでの、バスがあるというので、それに乗ることにした。
約、一時間である。丁度良い。
ミニバスに乗り込んできた、最後の方々が、日本人の、榊原夫妻だった。
私の後ろの座席に座った。
老後をタイで、暮らし、ビザのために、一度海外に出るということで、ラオスを選んだという。
その榊原さんとの、話で、様々な情報を得ることになる。
四方山話から、ラオスの話になった。
山の上に行くほど、信じられないような生活の様であること。日本の戦後の生活より、悪いという。
私たちが、子供服を持ってきたというと、それは、何よりだという。
裸で生活している、子供たちが大勢いる。それは、貧しさゆえである。
私は、日本の戦後より悪いと、聞いて、少し考えた。
日本の戦後は、最低最悪である。
それより、悪いということは、どういう事態だろうと。
もし、そんな所に、私が行けば、あまりのことに、また、アホなことを、考え始めるだろうと、思えた。
つまり、支援活動の拡大である。
果たして、私個人に、それ程の、能力があるのか。
これは、宿についてからも、考え続けた。
そして、私が、戦争犠牲者の追悼慰霊から、この活動が始まったと言うと、榊原さんは、是非、戦場に掛ける橋という、映画で、有名になった、カンチャナブリーに、慰霊に行って欲しいと言った。
日本兵だけではなく、多くの捕虜を犠牲にした、橋の建設である。
泰緬鉄道である。
榊原さんは、慰霊ではなく、見学に行ったが、花などを持たなかったことを、後悔したと言う。
せめて、花でも、供えてくれば良かったと。
日本軍慰霊塔には、日本語、英語、マレー語、タミル語、ベトナム語で、慰霊の辞が、刻まれているという。
戦争とは、愚かなものだと、言ってられない程の、悲惨な犠牲を出したのだ。
連合軍共同墓地にも、日本人として、追悼慰霊に、行くべきであると、思う。
榊原さんの、お話は、随分と、私に、多くの思索を与えてくれた。
バスは、ノーン・カーイの国境まで来た。
そのまま、国境を通る人もいる。
私たち、榊原さんは、ノーン・カーイに、宿泊する予定である。
皆、バスを降りた。
ソンテウや、トゥクトゥクを探すが、見当たらない。
夜であるから、知らない場所に降ろされると、不安になる。
私が、ミニバスの運転手に行った。
ホテルに行きたいと。
すると、運転手が、オッケー、送るよ、と言う。
すると、降りた人の中で、町に行く人が、また、乗り込んだ。
タイ人もいた。彼らが、先に行き先を言うので、そちらに向かった。そして、欧米人たちである。最後が、私たちであった。
街中の、中流ホテルである。
私たちは、そのホテルの、コテージを取り、榊原さんは、ホテルを取った。
荷物を置いて、一緒に食事をすることになった。
一泊、600バーツの部屋である。約、二千円。
ベッドが、二つある。
私は、二泊を、そこにした。その後は、ゲストハウスにする予定だった。
榊原さんとの、食事で、ラオスのことを、多く聞いた。
その時点で、私は、ラオス行きを、断念していた。
瞬時の決断である。
行けば、とんでもないことになるという、直感である。
バリ島、タイ北部、トラック諸島である。そして、ラオスとなれば、私の個人活動は、限界である。
相当な、支援金が、必要である。
榊原さん夫妻は、明日、ラオスに出るという。
私のことを、尋かれて、野中だけが、ラオスに入りますと、答えた。
私は、この町で、ゆっくりしていますと、いうことにした。
真っ暗闇の街中である。
ホテルの明かりだけが、異様に、輝く。
そして、夜が、以外に寒いのである。
夫妻に別れて、部屋に入った。
部屋も、寒くて、野中が、窓をすべて閉めた。
そこで、明日、ゲストハウスを探し、明後日、そちらに移り、野中も、明後日、ラオス入りすることにした。
疲れたのか、すぐに、眠った。
翌朝の、朝食の時に、榊原夫妻に会った。
すでに、町を散歩していた。これから、ラオスに向かうという。
野中に、向こうで、会うかもしれませんねーと、話している。
私は、食事を終えて、野中と、散歩がてら、ゲストハウスを探すことにした。
料金は、おおよそ、400、300バーツの部屋である。
メコン河に向かって歩いた。
イミグレーションの建物の前に出た。この建物も、日本の援助によって、建ったものである。
その、界隈には、多くのゲストハウスがある。
私たちは、その、一軒、一軒を見て回った。
部屋の中に、シャワー、トイレのある、ゲストハウスを選んだ。始めは、400バーツの部屋を紹介されたが、野中が、二階の300バーツの部屋もあると、言うので、そちらを見せてもらい、300バーツの部屋に決めた。約、千円である。
私は、帰る日まで、そこに、滞在することになる。
|
|