木村天山旅日記

タイ・ラオスへ 平成20年2月

第二話

タクシーが、時間通りに来たが、昨夜の人ではないという。用事が出来て、替わりに来たという。メータータクシーなので、安心して乗る。

 

高速道路を通り、その料金を払った。

そして、メーターは、200バーツと少しである。ところが、300バーツと言う。

私が、メーターを指して言うが、野中が、帰りの客がいないと、困るんだって、という。

帰りの客がいないことは、無いと思うが、面倒なので、300バーツを払う。

まあ、チップだと、思えばいい。

 

タイの民間機は、実に、適当である。

搭乗手続きをすると、三時間遅れであると言う。

前回も、チェンマイで、遅れて、日本行きの便に乗られないかもという、事態になったが、本当に、当日になってみなければ、解らない。

 

決して、信じてては、駄目である。

勿論、帰りも、三時間遅れだった。

結果、四時間を、空港で、過ごすことになる。

 

新しい空港、スヴァルナプ空港は、国際線、国内線と、入り乱れている。

私たちは、いつも、一階のロビーで過ごす。

人が少なくて、心地が良い。ただし、冷房は、きつい。全体に、冷房が行き渡り、下手をすると、風邪を引く。

私は、外に出て、暑い風を楽しみ、タバコを吹かすのが、好きだ。

 

漸く、時間になり、搭乗口に行く。

ところが、時間になっても、誰もいない。

また、遅れているようなのだ。

結局、30分過ぎで、案内が流れた。

 

座席は、自由席である。

私たちは、一番後ろの席に座った。結構、席が空いている。私は、途中で、隣の空いている席で、体を横にした。

一時間程度で、ウドーン・ターニに、到着した。

 

空港から、国境の町、ノーン・カーイまでの、バスがあるというので、それに乗ることにした。

約、一時間である。丁度良い。

 

ミニバスに乗り込んできた、最後の方々が、日本人の、榊原夫妻だった。

私の後ろの座席に座った。

老後をタイで、暮らし、ビザのために、一度海外に出るということで、ラオスを選んだという。

 

その榊原さんとの、話で、様々な情報を得ることになる。

 

四方山話から、ラオスの話になった。

山の上に行くほど、信じられないような生活の様であること。日本の戦後の生活より、悪いという。

私たちが、子供服を持ってきたというと、それは、何よりだという。

裸で生活している、子供たちが大勢いる。それは、貧しさゆえである。

 

私は、日本の戦後より悪いと、聞いて、少し考えた。

日本の戦後は、最低最悪である。

それより、悪いということは、どういう事態だろうと。

もし、そんな所に、私が行けば、あまりのことに、また、アホなことを、考え始めるだろうと、思えた。

つまり、支援活動の拡大である。

果たして、私個人に、それ程の、能力があるのか。

これは、宿についてからも、考え続けた。

 

そして、私が、戦争犠牲者の追悼慰霊から、この活動が始まったと言うと、榊原さんは、是非、戦場に掛ける橋という、映画で、有名になった、カンチャナブリーに、慰霊に行って欲しいと言った。

日本兵だけではなく、多くの捕虜を犠牲にした、橋の建設である。

泰緬鉄道である。

 

榊原さんは、慰霊ではなく、見学に行ったが、花などを持たなかったことを、後悔したと言う。

せめて、花でも、供えてくれば良かったと。

 

日本軍慰霊塔には、日本語、英語、マレー語、タミル語、ベトナム語で、慰霊の辞が、刻まれているという。

 

戦争とは、愚かなものだと、言ってられない程の、悲惨な犠牲を出したのだ。

 

連合軍共同墓地にも、日本人として、追悼慰霊に、行くべきであると、思う。

 

榊原さんの、お話は、随分と、私に、多くの思索を与えてくれた。

 

バスは、ノーン・カーイの国境まで来た。

そのまま、国境を通る人もいる。

私たち、榊原さんは、ノーン・カーイに、宿泊する予定である。

皆、バスを降りた。

 

ソンテウや、トゥクトゥクを探すが、見当たらない。

夜であるから、知らない場所に降ろされると、不安になる。

 

私が、ミニバスの運転手に行った。

ホテルに行きたいと。

すると、運転手が、オッケー、送るよ、と言う。

 

すると、降りた人の中で、町に行く人が、また、乗り込んだ。

タイ人もいた。彼らが、先に行き先を言うので、そちらに向かった。そして、欧米人たちである。最後が、私たちであった。

 

街中の、中流ホテルである。

私たちは、そのホテルの、コテージを取り、榊原さんは、ホテルを取った。

荷物を置いて、一緒に食事をすることになった。

 

一泊、600バーツの部屋である。約、二千円。

ベッドが、二つある。

私は、二泊を、そこにした。その後は、ゲストハウスにする予定だった。

 

榊原さんとの、食事で、ラオスのことを、多く聞いた。

その時点で、私は、ラオス行きを、断念していた。

瞬時の決断である。

 

行けば、とんでもないことになるという、直感である。

 

バリ島、タイ北部、トラック諸島である。そして、ラオスとなれば、私の個人活動は、限界である。

相当な、支援金が、必要である。

 

榊原さん夫妻は、明日、ラオスに出るという。

私のことを、尋かれて、野中だけが、ラオスに入りますと、答えた。

私は、この町で、ゆっくりしていますと、いうことにした。

 

真っ暗闇の街中である。

ホテルの明かりだけが、異様に、輝く。

そして、夜が、以外に寒いのである。

 

夫妻に別れて、部屋に入った。

 

部屋も、寒くて、野中が、窓をすべて閉めた。

そこで、明日、ゲストハウスを探し、明後日、そちらに移り、野中も、明後日、ラオス入りすることにした。

 

疲れたのか、すぐに、眠った。

 

翌朝の、朝食の時に、榊原夫妻に会った。

すでに、町を散歩していた。これから、ラオスに向かうという。

野中に、向こうで、会うかもしれませんねーと、話している。

 

私は、食事を終えて、野中と、散歩がてら、ゲストハウスを探すことにした。

料金は、おおよそ、400、300バーツの部屋である。

 

メコン河に向かって歩いた。

イミグレーションの建物の前に出た。この建物も、日本の援助によって、建ったものである。

その、界隈には、多くのゲストハウスがある。

私たちは、その、一軒、一軒を見て回った。

部屋の中に、シャワー、トイレのある、ゲストハウスを選んだ。始めは、400バーツの部屋を紹介されたが、野中が、二階の300バーツの部屋もあると、言うので、そちらを見せてもらい、300バーツの部屋に決めた。約、千円である。

私は、帰る日まで、そこに、滞在することになる。