木村天山旅日記

タイ・ラオスへ 平成20年2月

第八話

夜に、もう一度、地元の人の行く、タイレストランに出向いた。

 

今度は、牛肉のミンチの炒め物と、もち米を頼んだ。

最初に、もち米と、大量の生野菜が出て来た。

生野菜は、水で洗っている。

少し心配だが、食べる。

 

ミンチの炒め物が出てきた。

何とも、不味い。

しょっぱいだけである。それを、生野菜と食べろ、ということなのだろう。

交互に食べる。

もち米だけは、美味しい。

 

生野菜は、キャベツ、ハニーレタスのようなもの、そして、いんげんの、生である。いんげんの生は、さすがに食べられなかった。

 

それでも、50バーツである。約、170円。

実に、安い。矢張り、地元のレストランである。

 

そのまま、日本で働いていたという方の店に行く。

ビールと、水を買う。

店番は、子供がいた。主人は、いなかった。

 

部屋に入ると、八時になっていた。

 

少し歌を詠む。

 

父母の 姿をみたり メーサイの 貧しき親の 生きる情熱

 

死にたくも 生きたくもあり この憂い 深き病に 陥る我は

 

さらにまた 旅行く空の あわれさに 流れる雲を 追い行く我は

 

通じぬは 言葉なりせば 同じ血の 人の思いは 通じぬわけ無し

 

微笑みは 国境越えて 共通の 人の心を 開く術なり

 

腹が、収まってきたので、ビールを飲む。

私は、酒を飲むためには、物を食べない。食べると、飲めなくなる。受け付けないのだ。

酒を飲んでいて、一口でも、食べると、もう、酒は、嫌になる。

 

一人で、夜を過ごすと、様々なことを、考える。

実にいい。

 

電話に、煩わされることもない。

好きなだけ、考えることが出来る。

 

世界の、グローバル化は、世界の縮小である。

世界の一地域で起こることが、即座に、世界に広がる。

世界は、狭くなっている。

一つの国の問題が、その国だけの問題ではなく、世界の問題になりえる。

 

そこに、大きく立ちはだかるのは、価値観である。その価値観を、宗教が、負う。

問題は、それである。

主義、イデオロギーというものも、宗教と同じである。

 

何とか、それを超えるべくの、働きかけが必要である。

つまり、それらを、包括して、超える行動である。

 

それが、人道支援である。また、そうでなければならない。

だが、それにより、逆に、宗教、主義の、偏狭さを、増す場合もある。それには、注意が必要である。

人道支援を受けて、その裏では、軍備を充実させるという国もある。

 

政府支援は、書いたように、大企業の世界化を、推し進めるものである。それも、よし。

それでは、私のように、個人や、民間の支援は、人と人の、結びつきを主にして、ある感情的、親密感を作るものである。

 

それが、後々に、日本と、その国との関係を良い方向に、向かわせると、信じる。

それが、大きな目的である。

私が言う、千年の日本のために、である。

 

国も、最後は、個人的感情に、動かされる。

 

良いことをするということには、やや、偽善的な感情の、抵抗感がある。

それは、私も、じゅうじゅう、承知している。

 

例えば、野中が戻り言う。

子供服を皆に、上げる。配布する時に、勇気がいったと言う。

つまり、良いことをしているという、偽善的感情である。

昔の、自分なら、鼻で、笑った行動であると。

 

しかし、実際に、それを実行して、相手が、非常に喜び、それが必要であることを、実感として感じて、それは、実に有意義なことであると、気づいた。

 

その子供服は、人から、貰ったものである。それを、ただ、渡すのみである。

こういう、旅の仕方もあると、思ったという。

 

日本人旅行者にも、多く出会ったが、もし、彼らも、子供服を持参して、村の人々に、配布したら、また別の付き合い、村人との、触れ合いが、出来たはずであると言う。

そして、それは、有意義なことである。

 

必要な物を、必要としている人に、支援する。

何の恥ずかしいこともない。

 

実際、野中に対して、村人は、その対応が、全く変わったという。

村を、見学するのに、抵抗がなくなった。

よそ者意識が、無くなったのである。

知り合いの関係になったという、僥倖である。

 

麻薬と、セックスを求める日本人旅行者に、新しい、旅の喜びを、伝えたいと、野中が言った。それだけではない、旅もあると。

 

使用しなくなった、子供服を持参して、配布するだけで、新しい関係が築けるのである。

そして、荷物は、そこで、無くなる。手ぶらになるのである。

 

私が、今回、ラオスに入らないということで、野中は、新しい体験と発見をした訳である。

ただし、私は、次には、タイを通らず、直接、ラオス入りして、支援活動をしようと、考えた。

 

無視、出来なくなったのである。

 

個人としての、活動を、これ以上に広げることは、無謀だと、思いつつ、矢張り、性格である。何とか成るだろうという、楽観である。

 

実は、寄付商売とか、NPO商売というものがある。

それで、殺された人もいる。

例えば、ベトナムで、学校建設をしていた、NPOの男が、行くへ不明になった。殺されたのだ。

彼は、ベトナムに、学校を作ると、日本にて、寄付を募り、一応は、学校を建てた。ただ、建てただけである。そして、更に、募金運動をして、金を集めた。

その地域の人には、実に、傲慢不遜に接していたという。

ところが、彼の本性が、ベトナム人に、見抜かれた。単なる、金目当ての、行動であること。学校を建てても、それは、使用されていないのである。

地域の人の、不信と、反発を招き、遂には、殺されるという事態になったのである。

 

こういう、団体は、多い。

表面は、確かに、ボランティア活動であるが、裏は、商売なのである。

金を、いかに、人から、巻き上げるかということである。

私は、それを、寄付商売と言う。

 

勿論、私も、その一人である。

ただ、寄付する人が、私と、行動を共にして、私の行動を確認すれば、いいことである。

ただし、同行であるから、私と同じように、安宿に泊まり、私と、同じ物を食べて、貰う。

 

ある団体は、その団体の施設に、人を招くが、高級扱いをする。

そんなことで、誤魔化されるのである。

 

そこの人と、同じように寝泊りし、同じものを食べることで、より、支援の様を理解すべきである。

 

そこで、初めて、支援することの意義と、現状を知ることが、出来るというものである。