木村天山旅日記

タイ・ラオスへ 平成20年2月

第九話

12日である。野中がラオスから、戻る。

帰国の日が、近づく。

 

朝は、ゲストハウスの庭で、コーヒーを飲んで過ごした。

思いつく、歌を書き付ける。

 

一人の男が、私に話し掛けた。

アムステルダムから来た、中年の男である。

 

私に、何を書いているのかと、問う。

私は、日本の古い歌を、書いているというと、それは、何かと訊く。

 

英語で説明するのが、難しい。

要するに、日本の古い歌の形があり、それを書いているのだと言うと、シンガーかと、訊く。

歌手ではなく、ポエムだと言うと、少し納得したが、古い歌という、言い方を、アイドントノウと、言うのである。古い形式の歌の形と、説明すれば、よかったと、後で気づく。

 

彼は、奥さんと、タイを旅していると言う。

奥さんを連れて旅する人は、珍しい。

若いカップルや、子供づれは、いることは、いるが、中年は、現地の女、タイ人の女を連れていることが、多い。

 

私も、もう少し英語が出来ると、話し合いが、スムーズにゆくと思うが、あまり、覚える気は無い。

それに、不自由しない。

 

彼は、何か、色々と話したが、私の方は、ただ、相槌を打つ程度である。

何となく解るような、感じである。

 

タイ語も、あまり、覚えない。

覚えられない。

発音が難しすぎる。

語学というのも、才能である。私には、語学の才能は無い。

 

才能があれば、一度で、覚えるものである。

 

好きな料理の名前も、店の人が、私に教えるが、覚えない。

私の好きな、サラダは、パパイヤサラダで、甘酢のソースで作る。

ソムタムというが、覚えられない。

これも、野中に聞いて書いている。

 

注文するのに、身振り手振りでする。

店の人は、それで、何とか想像してくれる。

鍋を手で表し、火をポッポと、手で表現すると、それに似たものが出るというもの。それも、楽しい。

 

地球の歩き方の本を持って、料理の図を見せることもあるが、無いと言われることもある。

その土地の料理ではないということだ。

だから、間違いもある。地球の歩き方である。

でも、そんなことは、どうでも、いい。

 

少しの英語で、何か質問して、楽しむ程度が、私には、いい。

 

後は、向こうの人に、日本語を覚えて貰う。それが、いい。

 

一度、部屋に戻り、再び、食事をするために、出た。

近くの、食堂である。

現地の人の食堂だ。

 

店先で、色々な肉を焼いている。

私は、ソーセージと、例のサラダと、もち米を注文した。

相変わらず、指差してである。

 

それで、十分、満腹になる。

45バーツ。約、150円程度である。

実に、安い食事である。

 

もち米は、半分程、余したので、持ち帰る。

おばさんは、必ず、それを、袋に入れてくれる。

 

部屋に戻り、ベッドに体を、横たえる。

 

そうして、寝てしまった。

 

目覚めて、西行を読む。

感じた歌には、線を引く。

西行を読むと、歌が出来る。

 

歌詠みは 心素直に 誠なり 作為の技も 捨てて立つなり

 

そうしている内に、日本のことを、思う。

 

民族の 伝統卑下し どこへ行く 行き先無くし 喜ぶ愚衆

 

そうそう、ここで書くことが、あった。

丁度、ノーン・カーイでは、市議会議員選挙であった。

選挙運動が、行われていたのである。しかし、その様、日本と、全然違う。

日本では、何々党の誰々ですと、繰り返すが、こちらでは、音楽を流す、車に、写真を貼って回るのである。

その音楽が、演歌なのである。

それが、面白い。

 

音量規制がないゆえに、大音響で演歌を、流す。

日本の演歌が、タイに流れたと言える。

 

今は無き 日本の演歌 ここにあり 流れ流れて ここに至れり

 

タイにては 演歌主流で 芸術と あいなりたりて 威風堂々

 

兎に角、演歌なのである。

最初に泊まったホテルで、流れていたのが、クラシック音楽であったのが、不思議な程であった。

 

夕方、野中が、戻るので、私は、ゲストハウスの庭で、コーヒーを飲みつつ、待った。

 

四時頃、野中が、戻った。

 

旅の相棒が、戻るのは、嬉しい。

早速、ラオスの話を聞く。

 

野中が、行った村は、バンビエンという村である。

その村の、山の中腹にある、ゲストハウスに泊まった。

バンビエンは、麻薬とセックスの町で、欧米人で、たいそう賑わっているという。

 

このエッセイを、ラオスの政府が読んで、麻薬撲滅に着手したら、面白いが、まず、読まないだろう。

 

勿論、日本人もいる。

以下、省略する。

 

部屋に戻っても、野中の話が、続いた。

これから、ラオスに支援活動をするか、否かと、私は考えたが、前に書いたように、することになるだろう。

 

日本の企業で、ラオスに、学校建設をしている、企業がある。

これからは、企業イメージを高めるためにも、企業の支援活動が、注目されるだろうと、思える。

だが、人と人の関係である。

建物だけを建てて、善しとするものではない。

如何に、人と人を結びつけるか、である。

 

野中が、今日は、一日何も食べていないと言うので、早いが、夕食を食べるために、出た。

一度、野中と、行った、店に向かった。

 

中国人が食べていた、鍋物が、食べたくて、指差し、注文した。

中国人は、正月のお祝いに、食事に来ていると、店の女の子が、教えてくれた。

二つのテーブルを使っての、大家族である。お土産小路で、店をしているという。

 

そして、私は、その家族が、食べていた、ソーメンのような、緬を注文した。彼らは、それを、そのまま食べているのである。

出てきたものは、ソーメンそのままである。

 

食べてみると、ソーメンである。

野中が、鍋の汁を入れて食べる。旨いというので、私も、真似をした。

日本のソーメンと、変わらない。

 

鍋は、野菜が多く、味が薄い。

それに、好みで、辛いソースをつけて食べるのである。

 

ほうれん草のような、野菜が多く、キノコ、マッシュルームのようなもの、である。

エビが多く入っていた。出汁にしているのだろう。しかし、どうも、海のものである。海は遠いから、輸送してきているのだろう。

 

店の人は、英語が全く通じない。野中が、タイ語で、話し掛ける。

女の子は、店主の娘だった。手伝っているという。高校生であり、お金があれば、大学に行き、コンピューターの勉強をしたいと言う。

大学は、地元の大学であり、この町から、出たくないと言う。この町が、好きなのだ。

 

タイ語で、話をすると、愛想が、良くなった。

 

その内に、欧米人のカップルが、入ってきた。

英語であるが、全く通じない。

彼らは、諦めたように、注文して、出て来たものを見て、ノーと、言っていた。想像していたものと、違うのであろう。

しかし、仏頂面をして、食べ始めた。

 

私たちは、それを見て、おかしくて、笑いたくなったが、我慢した。

男の方が、私たちを見て、肩をすくめ両手を上げる、仕草をする。

 

しかし、次に行った時、何と、英語のメニューを用意していたのである。

実に、素早い、反応だった。

ただ、野中が見て、変な英語だと言う。

ヌードルといっても、数多くある。どのヌードルなのかが、解らないという。

スープといっても、数多くある。どのスープなのか、これでは、解らないらしい。

 

そういえば、別の店で、フライヌードルという英語を見た。フライヌードルとは、どんなものか、興味がある。炒めた緬ということで、焼きそばのことか。よく解らない。