タイ イサーン〜ラオス 子供服手渡し

平成20年2月4日〜15日


 タイ東北部、イサーンの、ラオスとの国境の街ノーンカーイへ来ました。

 イサーンを訪れたのは、昨年のタイ下院議員総選挙で、亡命中のタクシン元首相のタイ愛国党が大勝したとき、もっとも大きな票田になったというイサーンとは、どんなところか見たかったからです。

 イサーンの見聞については、木村天山告知板に詳述してありますので、ここでは省きます。

 ラオスは、日本人なら14日間ビザ無しで滞在できます。テラの会事務局のスタッフが、子供服を持って、単独で入国しました。


※バンビエンからルアンプラバーンへ行く山道。砂埃が舞い上がり、両脇に無数の集落が点在する。  ラオスで子供服を手渡すことに決めたのは、ノーンカーイで会った、茅ヶ崎から来た日本人の長期滞在者の夫妻の話に関心をもったためです。

 二人はタイ国ビザを延長するために、ラオスに入ったことがあり、その際足を伸ばしたバンビエンという山あいの街から、ルアンプラバーンという世界遺産に登録されている街まで、10時間ほど乗り合いバスに揺られて行きました。その道すがら、戦後の日本より生活水準の低く見える無数の村があり、裸の子供たちを見ました。

 夫妻の情報を頼りに、じっさいにその山道まで行くため、首都ビエンチャンからバンビエンに向かいます。


 木村が入国しなかったのは、夫妻に、ラオスが旅行者にとっては厳しい面もある国であるときいたからです。

 ビエンチャンからバンビエンまで、バスで5時間かかりました。乗っているのは欧米人の若者を中心に、日本人の女性もいて、みんな何だかそわそわしています。バンコクのカオサン通りにたむろするような面々が集まっているのに、さいしょは驚きましたが、バンビエンに着いて、やっとそのわけがわかりました。

 ベトナム戦争時代にハノイなどへ北爆に行くB-52爆撃機の中継地であったバンビエンは、その後ラオス最大の歓楽街になりました。のどかな山の中に、とつぜんネオンまたたくバーが軒を連ねているのです。欧米の若者たちが、タイでは取り締まりが厳しくなって出来なくなった、自由奔放な遊びをするために雲集しているのです。

※この女性は、孔雀にしか見えない美しい羽の山鳥を売っていました。手のひらは、写真では見えませんが、血だらけです。 


 その盛り場のすぐそばに、やっと電気が来ている昔ながらの村落があります。市場ではぎょっとするようなものが売られていて、見ていて飽きません。

 ある店では、その日の朝山で採れた動物を売っていました。ハクビシンと狸でしょうか、その奥の猫科の動物は、どう見ても山猫にしか見えません。食べるにはあまりにおしい、美しい毛皮です。ちなみに地元の人にきいたところによると、家猫と山猫は違うそうで、山猫は食べるけれど、家猫は食べないとのことです。何だかほっとするような、しないような話です。


 ラオス仏教の寺院に入ると、小僧さんが声をかけてきました。その日の夜は近くの寺で寺祭りがあるので、小僧さんたちも、占いや説法にかり出されるのでした。

 ラオスの人々はみんな本当に人なつっこく、道で会うとほとんど誰もが「サバーイディー!」とあいさつしてくれます。その笑顔に出会うたびに、気持ちがほぐれます。

 ラオスでかつて高等教育を受けた人は、旧ソ連に留学しました。その関係からか、ある年代以上の人にとっては英語が一般的ではありません。フランスの統治を受けたこともあるので、フランス語の堪能なおばさんにも会いました。

 通貨はキップで、1ドルがおよそ27,000キップ。短い滞在のあいだ、一度も現地の相場がつかめませんでした。例をあげると、市場で買った山鳥の尾羽が十本で5000キップでした。さて、高いのやら、安いのやら。

 


 バンビエンからルアンプラバーンへ行く山道の脇に、古い村がありました。写真の子は親が両方とも亡くなってしまい、近所のおばさんが育てています。子供服が必要かとたずねると、必要だというので、持ってくると約束して宿にいったん戻りました。

 子供服を携えて村に行くと、何とあたりの村人総出で迎えられました。かばんをひらいたとたん、四方八方から手が伸びてきて、あっという間になくなりました。

 バーゲンセールのように、一瞬騒然となりました。

 服をもらいそびれた赤ん坊に、帽子をあげると、喜んで走っていきました。

 普通の旅をしているだけでは、こんないいものはなかなか見れません。子供服をあげるというだけで、現地の人の暮らしに一歩踏み込むことができます。

 じつは子供服を持っていくまで、村に足を踏み入れることさえ躊躇して、ふんぎりがつくまでしばらくかかりました。物質的に豊かな国の人間が、お涙ちょうだいのボランティアをしているだけじゃないのか、自分の行為はラオスの人にとって失礼に当たりはしないかと考えたのでした。

 しかしじっさいにあげてみて、自分の行動はそんなに悪くなかったと実感できました。彼らはほんとうに子供服を必要としていましたし、しんから喜んでくれました。

 ただ、日本に誰も着なくなった子供服があり、それを必要とする人に渡す、その橋渡しをしているだけに過ぎません。大人の考えるような、政治的な思惑とか、貧富の問題とかは、なんら関係ありません。なぜなら、子供には、宗教も国境も、本来関係ないからです。

 子供は子供。とある国のお兄さん、お姉さんから、とある国の弟、妹がお下がりをもらう。それだけのことです。


 さらに山道を自転車で奥へ奥へと入っていくと、子守をしているらしい女の子に出会いました。子供服はもうなくなっていましたが、赤ん坊のおしめなどに使える清潔で肌触りのいい布が残っていました。必要かときくと、必要だというので、それも渡してきました。

 お姉さんの脇にいる子は、パンツも何もはいていません。すすけて泥だらけで、衛生状態は決してよくありません。布はその子の下着になることでしょう。何度も布を手でこすって、きれいだね、というようにお姉さんの顔を見上げる笑顔が、懐かしく思い出されます。

 だいたんに村の中に入って、暮らしぶりを見せてもらいました。電気は来ていますが、水道はなく、井戸水を使っています。プディン・デンという村で、46戸の家屋に376人が住んでいるとのことでした。

 村の中央のお店で、オレンジジュースを買い、子供たちに一本ずつプレゼントしました。みんな、手を合わせてひざをちょっとだけ折って「コプチャイ・ライライ(どうもありがとう)」と言うので、あまりにも愛らしく、ラオスの子供はこんなに笑えて、幸せなんだなあと思いました。

 ラオスでの子供服手渡しは、大成功に終わりました〈完〉



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文章・画像はテラの会に属します