サムイ島子供服手渡し

平成20年4月16日〜23日


※スラッタニーとサムイをつなぐフェリーは日本からの払い下げ。もとの船名は「伊勢丸」。なぜか地図がそのまま残っていて、このフェリーが伊勢湾を巡っていた遊覧船であったことがわかる。地図には伊勢神宮の内宮、外宮の位置がみえる。去年伊勢神宮に参宮した私たちにとっては、何ともいえない偶然。船のエンジンは飛行機と違って強靭で、長持ちするという。

 カンチャナブリーを離れて、一路南部へ向かいます。スラッタニー空港からバスで二時間ほどの港でサムイ島行きのフェリーに乗りました。

 タイ南部へ行くことにしたのは、現在テロが頻発し、王様でも事態を収拾できないであろうといわれている、南部4県に足を踏み入れることはできないまでも、できるだけ近づいて、何がおきているのか見定めたい気持ちがあったからです。

 また近年リゾート化の激しくなったサムイ島で、現地のひとびとの暮らしは決して豊かではないときき、持参した子供服を渡す相手を探すつもりでした。


 泊まったバンガローの近くに、バラックがありました。仕事を求めて、主にイサーンから労働力がサムイに移入しているのです。彼らはアパートを借りたりする金銭的余裕がないので、電気はあるが、水は政府の給水車に頼る他ない劣悪な住環境で暮らすことを余儀なくされています。

 そのバラックのあたりに住んでいる12歳の女の子と知り合いました。海沿いにマッサージをする竹でできた小屋があり、そこで働く女性がイサーン人だと知り、ちょうど学校が夏休みなので海沿いに涼みに来ていた女の子がノーンカーイ出身だとわかって、2月にノーンカーイを訪れた私たちは、にわかに親近感が湧いたのです。


 その女の子はサムイに出稼ぎに来たお姉さんたちについて来たようでした。日本製の真っ白なブラウスを手渡すと、とても喜んでくれました。ここではなかなか手に入らない、しっかりした縫製の服は、デザインも可愛らしく、気に入ってもらえたようでした。

 ほかにも大小の男物、女物の子供服もあるけれど必要かときくと、うなずくので、夏物を選り分けて渡すことにしました。女の子は末っ子で、弟妹はいないのですが、まわりにたくさん小さな友達がいるので、渡してくれることになりました。

  サムイ島はリゾート地化が急速に進み、5年前と物価がほぼ二倍にはねあがっていました。海岸沿いはほぼホテルに占領され、人口過密で息苦しいほどです。高級住宅も建ち並び、私たちのバンガローのとなりにも、警備員付きのリゾート型住宅が建ち、夜も昼かと思うほど照明が光っていました。

 そうしたリゾート地を支えるために、安い労働力がタイ各地から集まるという現象が起きているのです。その多くが、バンコクを支えているのと同じ、イサーン人たちなのです。まったく、イサーン人のパワーには圧倒されます。タイ中どこへいっても、イサーン人に出会いました。サムイのバラック小屋からは、夜になるとイサーンの大衆音楽「モーラム」がきこえました。思わず踊りだしたくなるようなリズムに、イサーンの言葉で演歌調の歌をのせる、力強い、イサーン人によるイサーン人のための音楽です。「モーラム」の大スター、シリポーン・アムパイポンも、サムイの寺祭りに来て公演を行ったというほど、たくさんのイサーン人がサムイにはいるのです。

 タイ南部に来たはずが、結局出会ったのはイサーン人でした。

 スラッタニーの街に2、3日ほど滞在し、旅の疲れをいやしました。観光客ずれしていない人たちが、ぼらず、騙さず、ごく普通に接してくれるのが、サムイ島の異様に高い物価に嫌気がさした私たちに、南部の本当のよさを教えてくれているようでした。

 余談になりますが、今回の旅は、タイ北部、また東北部を大票田にしているタクシン元首相が、タイにもどってきて、チェンマイで講演会を開いたりしはじめたころにあたりました。南部では首相の印象は極めて悪く、市井の人の意見では、南部はタイで一番税金を政府に払っているのに、その見返りを受けることなく、それらは全て北部と東北部にいっていると、不満で爆発せんばかりでした。30バーツ医療などの、タクシンのとった政策の資金源は、南部から来ているという意見でした。

 ある若者は、タクシンは南部に演説に絶対に来ない、といいました。もし来たら、おれが拳銃で撃ち殺してやる、と。

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