木村天山旅日記

 バリ島 平成20年5月 

 第3話

当初、子供服は、クトゥ村の子供たちに差し上げることにしていたが、もっと貧しい子供たちがいる小学校にとの、提案を受けて、ウブドゥのカッテクランタン村の、学校に行くことにした。

 

それが、御祭りがあり、学校が午前中で終わるということで、九時にホテルを出た。

 

その学校の生徒の、半数は、バリ島の人々の支援を受けて、通っているという。

その支援団体の担当の方も、私たちのために、いらして下さった。

 

私たちは、五名で、持てるだけの子供服を、飛行機に乗せて来た。

100キロほどの、子供服である。

 

テラハウスの社長になる、ウイディアさんに、付き添いと、通訳をお願いして、校長先生にお逢いし、その後、すぐに、一年生の教室に向かった。

 

「こんにちは。日本から来ました、天山と申します。皆さんに、服のプレゼントを持ってきました」

と、挨拶すると、歓声が上がった。

 

先生が三人付き添い、それぞれの子供たちを呼んで、サイズの合う服を、手渡しする。

窓を開け放しているが、風がなく、暑い。

一人一人に、手渡しているうちに、私は、汗だくになった。

 

他の者も、必死に、サイズの合うものを選び、手渡している。

 

中には、大人用のものもあり、先生が、私に合うということで、お渡しする。

そのうちに、子供が、お姉さんに合うなどと、言い始めて、それなら、家に持って行きなさいと、先生が、手渡しするという、具合になっていった。

 

おおよそ、一つの教室が、終わると、隣の二年生が、やって来た。

男子物が、足りなくなり、残念なことをしたと思う。

 

しかし、男の子に、お姉さん、いると、聞いて、頷くと、女物を上げるという、始末である。

 

一時間ほど、そうして、子供たちと、過ごした。

皆、喜んだが、中には、あまり合うものがなかった子も、いたのかもしれないと思うと、申し訳ないと感じた。

 

最後に

「私は、天山です。また、次も、服を持ってきます」

と、言うと、皆が、テンザン、テンザンと、唱和する。

 

「友達になって、また、逢いましょう」

 

兎に角、あっという間の出来事だった。

先生たちも、自分に合うものがあり、喜んで、貰っていた。

いつの間に、大人用の物が、混じっていたのか、私は知らない。

 

私の、子供服支援は、追悼慰霊の追加的、行動である。

あくまでも、私は、戦争犠牲者の追悼慰霊が、主たる、活動である。

 

私は、目に見えないものを、相手にする人生を、後半の人生として、選んだ。

そして、それは、私の長年の希望だった。

 

子供服支援という、ボランティア活動ではない。

追加的活動である。

だから、子供たちの、笑顔に励まされるとか、喜んだ顔に、やったことの、達成感を感じるとか、まして、とても、良いことをしているとは、思わない。

 

たまたま、捨てる子供服を、集めて、それを、運んで配るだけである。

 

これに、勝手な、理屈をつけてもらっては、困る。

言えば、私の道楽でやっている。

 

ただし、これは、これからも続ける。そして、もっと、大掛かりにやりたいと思っている。それは、捨てる服なのである。リサイクルとしては、十分に価値のある行動である。それ以外の何物でもない。

 

私の荷物は、機内に入れるもののみで、後は、無料で飛行機に積めるだけ、積むという、簡単なことである。

 

あえて、何が嬉しいかと言われれば、私を知る子供たちが、増えて、旅する場所で、声を掛けられるということである。

要するに、知り合いが、出来るということ。

 

ただ、それだけ。

 

あなたを大切にしている人がいます。

あなたは、必要とされているのです。

歯の浮くような言葉で、下手なボランティア精神なるものを、語る、大変に偉い人がいるが、私とは、異質である。

 

私は、松尾芭蕉のように、捨て子に向かって、汝は汝の定めを泣け、と言う。そして、握り飯を渡して、去る。

自分の力で、生きよ。さもなくば、死ぬぞ、という言葉を、いつでも、吐く覚悟がある。

 

この活動を、タイ、ベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマーに、広げるのが、私の道楽である。

 

高尚な哲学など無い。

ある訳が無い。

貰った物を、ただ、配るだけである。

 

子供たちと、別れて、校門の前で、写真を撮った。

先生たちが、皆、見送りに出た。

本日は、ガムランとの、共演をします、などと、話すと、校長が、子供たちにも、見せてやりたいと言う。

私は、次に来た時に、歌を歌いますと、言った。

これが、私の癖である。

すると、先生たちが、歓声を上げた。

次に来た時、私は、子供たちに、歌を歌うことになる。

 

また、一つ、余計なことをすることになる。

性格である。

いつか、これが、命取りになるだろうと、思う。

 

汗だくになったまま、車に乗り込み、ホテルに向かう。

夜の公演のために、体力を取り戻したいと思う。

リハーサルの、六時前まで、休憩することにした。

 

ホテルに到着した時、昼を過ぎていたので、ホテル横の、レストランに入り、皆で食事をした。

 

驚いたのは、レストランのみならず、至る所に、本日の公演のチラシが、貼ってあることだった。

全く意識しなかったのだが、それを、見て、アラマアと、ため息をついた。

いよいよ、こんなことになってしまった、と、思った。

 

クトゥ地区の人との、触れ合いの意味での共演と、考えていたからだ。

 

勿論、前代未聞であることは、承知である。

 

実は、クトゥ村の集会所は、バリ島一の、舞踊団が、毎週火曜日に公演している。

私の公演は、毎週、木曜日に公演する、クトゥ地区の皆さんの公演である。

ガムランの人の中には、火曜の公演に、参加する人もいるほどの、力量の人もいる、楽団である。

それだけでも、行幸だった。

 

テラハウスが、クトゥ地区にあることもあり、皆さんと、お近づきになりたいとの、希望だった。

まあ、流れに任せるしかない。

 

イタリアンの食事は、美味しかった。

パンがいい。

日本のパンは、やたらに、柔らかいが、バリのパンは、固くて、しっかりしている。

 

部屋に戻り、シャワーを浴びて、タバコをふかした。

 

実は、もっと、貧しい地区が、車で二時間かかる場所にあり、そこへ、子供服を持って行って欲しいと、ウイディアさんに言われたことを、思い出していた。

次は、そこにも、行くことになるのだ。

 

そんなことを、考えていると、果てしなく、活動の範囲が広がるのである。