木村天山旅日記

 

タイ旅日記 平成20年6月 

 

第2話

タイ北部、チェンマイから、北西に、メーホンソーンがある。

今回の旅の、最大のテーマである、追悼慰霊の儀を行うために、私は、来たのだ。

 

インパール作戦の、最大のポイントが、メーホンソーンにある。

インド・インパールを陥落させて、イギリスからの支配権を奪うものである。

このことを書くには、膨大な量になる。

インパール作戦については、前回のタイ遥かなる慰霊の旅に書いている。

 

私が、慰霊を行った場所から、順に書いていくことにする。

 

メーホンソーンから、南に、車で二時間ほどのクンユアムという場所に向かう。

その途中で、ファイポンという村に立つ、慰霊碑に立ち寄ることにしていた。

 

一時間ほど、山道を走り、その曲りくねった山道に、忽然として、慰霊碑が立つ。

永井元陸軍通訳官が建立した慰霊碑である。

 

この永井通訳官は、日本の敗戦から、英語塾を経営し、ある日、突然のパニックに陥って、自分が、目にした、連合軍オーストラリアの兵士の拷問に、立ち会った時のことを思い出し、その時から、タイを訪問して、慰霊をしようと、決めた方である。

カンチャナブリにて、その、拷問を受けた、オーストラリア人と、再会したというから、驚く。

 

彼は、何度も、涙を流して、そのオーストラリア人に、謝罪したという。そして、二人は、深い友情を結んだ。

戦争がしたことである。

二人は、個人的恨みなどない。オーストラリア人は、もう、昔のことであり、忘れると言った。

 

慰霊碑は、2000年の建立であるから、まだ、八年前のことである。

 

道路の、向こうは、渓流である。

しかし、渓流は道からは、見えないほど深い。

 

私は、兎に角、チャーターしている車のこともあり、次々と、回らなければならないと、即座に、慰霊の儀を、執り行った。

 

慰霊碑の後ろに、思わぬ木が、倒れて、そこから、御幣にする、枝を取ることが出来た。日本から持ってきた、白紙を取り付けて、それを、依り代として、慰霊碑の前に、捧げた。

 

皇祖皇宗天照大神、そして、神々を、神呼びする。

更に、その地で、亡くなったといわれる、およそ200柱の、兵士の霊を、呼ぶ。

 

神呼びは、言霊の面目である。音霊にかけて、霊位を依り代に、御呼びする。

 

神霊、霊位は、音に乗るのである。

 

神呼びをし、大祓えの祝詞を唱える。

慰霊の儀の、私の大祓えの祝詞は、慰めの祝詞である。

更に、次元移動と、囚われからの解放である。行き先を、見失った霊位に、道をつける。

勿論、奇跡的なことは、起こさない。

 

祝詞を終えて、次に、神送りである。

その際に、普通の言葉で、話しかける。

この地で、亡くなった兵士たちに、私は、靖国に帰りたい方は、靖国に、故郷に帰りたい方は、故郷に、霊界に入りたい方は、霊界に、お送りすると、語り掛ける。

そして、最も大切な、清め祓いである。

 

神送りの音霊である。

 

その時、私は気付かなかったが、同行の野中が、私の神送りの時に、渓谷の方から、一斉に、蛙が鳴き始めたという。そして、私の神送りが、終わると、また、一斉に鳴き止んだという。その時、野中は、はじめて、向こうに川があることが、わかったと言う。

 

自然の生き物に、霊位が、乗り移り、その意思を、示すことがある。

驚くことは無い。

 

神送りの時に、私は、慰霊碑を離れて、渓谷に対処していた。体が、そちらに、引かれるのである。

 

清め祓いとは、想念の清めであり、祓いである。

苦しきことも、哀しきことも、切なきことも、すべてを、祓う。

風が、流れを清めるように、水が、流れを清めるように、すべてを、流す。

それを、日本人は、音霊によって、成した。自然の様を真似たのである。

 

音は、音楽ではない。歌でもない。

歌は、和歌の歌の道を言う。

音は、清めのものである。

 

黙祷が、最も正しい祈りであるとは、以前に書いた。

少しの黙祷が、霊位を慰める。

 

私は、素人であるから、鎮魂の儀は、行えない。

鎮魂帰神という、儀は、私が神になり、私を通して、霊位を、その場から離す行為である。私は、それを行うことが出来ない。

 

私は、一人の人間として、対座する。

死ぬまで、神になど、なることはない。

 

鎮魂帰神の境地も、妄想である場合が、多々あることを、知っている。

人間は人間であって、善しとする。

 

名残惜しいが、次の場所に行くために、早々に、その場を立ち去る。

 

兎に角、道が、くねくねと、体の休む間もない。

ここも、日本軍が、作った道である。

 

クンユアムの町に入り、その先の、トーペー寺に向かう。

戦中戦後、ビルマのケマピューを通り、撤退してきた龍部隊の兵士が、駐屯した寺である。

この寺では、203名の兵士が亡くなっている。

 

寺の中に、慧燈財団が建立した、慰霊碑が建つ。

 

まず、私は、寺の中に入り、礼拝した。

 

一人の、老僧が出迎えてくれた。

私の和服に、日本人かと、問う。頷くと、笑顔で迎えた。

後で、ここの地域の人々と、日本兵が、深い関わりを持ったことを書く。

実に、平和的友好を築いたのである。

 

慧燈財団の建てた、慰霊碑は、平成七年であるから、12年前である。

石碑ではなく、木である。それは、次第に朽ちていた。

 

先ほどの、依り代を、そのまま持ち込み、同じように、慰霊の儀を行った。

まず、乱れが無いことである。

この寺の、僧たちによって、ねんごろに、葬られたのであろう。

 

何より、兵士のために、寺では、慰霊塔を建てていた。

ここで、毎日、経を上げてくれる。

まして、顔見知りの僧たちである。

霊位は、安心したであろう。

 

私は、清め祓いをして、感謝の祝詞を上げた。

ここでの、大祓えの祝詞は、感謝であった。

神送りをして、私は、寺の横を流れる川に、依り代の御幣を、流した。

 

日が照ったので、丁度、そこで、天照を拝した。

 

太陽を、アマテラスと、御呼びしてきた、日本人である。

太陽は、どこにでも、姿がある。

太陽をアマテラスと、御呼びしたのは、大和朝廷以前の、富士王朝の一人の、神皇による。

それは、天山通信の、日本の歴史に書いてある。

 

宇宙が神殿であり、太陽がご神体ということになる。

それは、壮大な、神観念である。

そして、実に、正しい。

自然の大元である太陽を、神と、御呼びして、奉るという、実に、理に適った感覚である。

 

私も、それを、そのままに、太陽を神として、崇める。

どの民族信仰も、それに対しては、抵抗しない。

皆、私たちと、同じだと言う。

拍手を打ち、太陽を拝すると、彼らも、同じように真似るのである。

 

後の作法は、瑣末なものである。

 

野中が、一本の、草花を慰霊碑に捧げて、写真を撮った。

その、淡い紅色の花は、輝いた。

 

蛙鳴く 虫も鳴くなり 追悼の いしぶみ超えて 天を突くなり

                          天山