木村天山旅日記

 

タイ旅日記 平成20年6月 

 

第13話

カレン族の村、トゥンルアン村について、少し書く。

 

農業を中心とした、自給自足の生活が基本である。

さらに、この村は、カレン族の、伝統が生きており、他のカレン族の村から、それを学びに来るといわれる。

 

自給自足の生活というものを、現代の日本人は、想像も出来ないと、思える。

唯一、文明の利器は、電気のみである。

 

米を主食にして、野菜、香草を採り、川では、小魚、カニなどを捕る。そして、農作物は、トウモロコシ、キャッサバ、トウガラシ、レタス、キャベツ、ナス、大豆、更に、果物では、柿、梨、梅を栽培している。

また、バナナ、マンゴーなどは、自生しているのである。

 

農作業は、基本的に、機械を使用しない、人手である。そのため、村人は、一致協力体制である。

労働力は、労働力で、お返しするという、相互扶助の精神に溢れる。

田植え、稲刈りは、村人総出で行う。

私も、一緒に田植えをしてみたが、30分ほどでも、腰が、大変だった。

 

しかし、現金が必要にものも多い。

基本的には、お金に依存する生活ではないが、タイという国に住んでいる以上は、必要なものもある。

電気代、衣服、バイク、車、そして、教育費、最低限の農薬などである。

 

村では、レタスなどを、売って現金を得る。

ただし、蓄えるための、お金ではないということ。

これからの問題は、いかに、このままの生活を維持してゆくかである。

近代化の波が、寄せてこないということは、無いのだ。

 

私が、見た限りでは、何も必要が無いように見えた。

きっと、電気がなくても、大丈夫である。

自然にあるもので、十分に生活が出来る。つまり、最も、強い生活力を持っていると、いえる。

理屈ではない、「あるがまま」の生活を続けてゆくことは、幸せであるという以外に、無い。

 

さて、仏教が、約300年前に入ってきて、仏教信仰もあるが、最も基本的なものは、伝統行為である。

それを、精霊信仰と、呼ぶが、私は、あえて、伝統行為と言う。

精霊というものを、広げると、山川の神、水火の神、その他、多くの自然精霊ということになる。

これは、学術用語である。

 

古代から、人は、自然の恵みと、その厳しさの中で生きてきた。

当然、自然に感謝し、自然を畏怖する。そこに、また、祈りの姿勢が、現れる。当然である。

自然との、共生、共感である。

それは、伝統行為である。

 

すべの存在に、霊が宿る。

 

家代々の祈りを、伝承して、祭りの時に、それを、唱える。家々で、別の祈りの言葉が、伝えられるという。

統一された、祈りの言葉はないのである。

何と素晴らしいことか。

つまり、それを、宗教形態の団体とするような真似ではなく、自然発露としての行為に、高めるのである。

 

司祭は、いない。

皆、男は、司祭になる。

年老いると、長老として、務めるのである。

 

要するに、職業司祭はいない。

 

邪馬台国といわれた、一部地域の部落が、日本にもあったが、単に発見された地域のことである。

多く、そのような、部落はあった。

邪馬台国といえば、何やら、大袈裟な物言いになるが、大陸の国に、発見されたことを、単に喜んでいるだけである。

 

そんな、部落が、大勢あったと、考えるべきである。

 

カレン族の村が、沢山あるようにである。

 

部落が、部落同士で、影響を与え合い、更に、結婚などを通して、交流を深めたはずである。

今でも、カレン族には、夜這いの風習がある。

それは、セックスをするのではない。

親の元で、気に入った男と、娘が、話をするというものである。

そして、父親が、その男を、気に入らない場合は、何と、男が帰った後で、木の実を潰すための、鉢を棒で叩くのである。

コンコンコン、コンコンコンと、響く。

それを、聞いて男は、アア駄目だと、諦めるのである。

しかし、そんなに耳がよいのだろうか。

遠くに帰る、男の耳だけに、響くのか。

だが、父親が、それをすると、男は、二度と家に来ないという。

 

それとも、それを聞いた誰かが、その男に教えるということも有り得る。

 

さて、儀式を見た私は、その緊張感と、弛緩の、微妙な感覚に、驚いた。

単に、緊張するばかりではなく、リラックスして、儀式を行う。

祈りの間に、私語をする者もいると、言った。

あまり、儀礼に拘らないのである。しかし、儀式は、する。

 

酒の回し飲みというのが、最大のポイントである。

同じ盃を、酌み交わすとは、戦いの前の、武士と同じである。

命の盃とも、いえる。

 

それで、村の男たちは、一体になる。

そして、女たちである。

儀式の際には、遠巻きで、眺めている。

料理を作り、男たちの、儀式を、助ける。

 

これは、差別であろうか。

当に、区別である。

女系であると言った。女たちは、男たちを、尊重し、また、男たちは、女たちを、尊重する。

 

伝承の、仕来りを教えるために、山に七日間、男の子たちを連れて、籠もるという。

それも、強制ではない。希望する者にのみ、伝える。希望すれば、年齢は、関係ない。

 

小西さんの、義理のおとうさんが、その役目であると、聞いた。

その、おとうさんの、剣舞を見せて貰った。

結婚式の中で行うが、私たちが、見られなかったらと、おとうさんは、結婚式の前に、家の中で、見せてくれた。

無音の中で、舞う、剣の舞である。

儀式の中では、音を出す場合もあるという。

 

長年に渡り、伝承されてきた、剣舞である。

大振りの、舞は、しなやかで、威風堂々として、威厳に満ちたものである。

 

先に、お弟子さんに、見せてもらったが、矢張り、年輪である。

歳を取ることが、重んじられる。

 

さて、食事をする際に、テーブルなどないゆえ、床に置く。

それを、囲んで食べる。

女は、その中に入らない。

 

食べ残したものは、すべて、豚、鶏、犬などが、食べる。

私が、バナナの皮を、捨てると、豚に上げてくださいと、言われた。

 

何一つ、無駄なものはない。

 

豚肉を、脂で揚げていた、おばさんが、私に一つと、差し出した。熱くて、受け取れない。すると、一人のおばんが、バナナの皮を、持ってきてくれた。

そうか、皿もいらないのか。

 

もち米も、バナナの葉に包んで、ふかすのである。

それを、開けて食べる時の、嬉しさはない。

 

そろそろ、書き止める。

色々と、あった。帰国してからも、色々と、思い出した。

あの、暗闇の夜の夜。

言葉にすれば、嘘になると思いつつ、矢張り、あの闇は、貴重である。

抱かれる闇。

恐ろしくない闇。

光を神と、呼ぶが、闇というものも、神であったと、私は、深く反省している。

 

闇をも、神と思わせる、夜の闇の闇である。

 

あの、伝承を破戒しようとする者が現れれば、私は、命を賭けて戦う。