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成田からバンコクに着いたのが深夜0時。朝のチェンマイ行きの搭乗時刻まで待ち、つぎにチェンマイでメーホンソーン行きに乗り換えました。一日がかりの強行軍でした。
次の日、朝から車をチャーターして、メーホンソーンからクンユアムへ、追悼慰霊碑を巡り歩きました。
その様子は詳しく木村天山の「タイ旅日記」にかかれておりますので、そちらをご参照ください。
木村天山「タイ旅日記」へ→★
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※メーホンソンからクンユアムへ向かう道の途中のファイポン村に、忽然と姿をあらわす永井元陸軍通訳官が建立した慰霊碑。まずはここから慰霊をはじめるこめこ※
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※碑の後ろには川があるようだ。虫が鳴いている。慰霊の所作をおえる丁度その頃合いに、それまで静かだったかえるの声が高鳴ってくる。かつて日本人は、虫や鳥などの姿や声に、先祖の霊の語りかける声をきいた
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※クンユアムの街から少し中にはいったところにあるトーペー寺院で、まずご本尊様にタイ式の礼拝をする。両肘、額の三点が床に着いていることが、もっとも正式な所作とされている。
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※トーペー寺院の入り口近くにある、慧燈財団の建てた慰霊碑にて、追悼慰霊。うしろの方にのぞく大きな仏塔は、寺院の方たちはが、ここで亡くなった日本兵のために自発的に建立して下さったもの
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※木材をぶつ切りにしてそのまま立てたような慰霊碑。遺骨収集の作業に追われて、これくらいのことをするのがやっとだった様子がうかがわれる |
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子※日本兵の遺骨は川沿いで見つかった。ファイポンでも同様である。小隊が水辺近くで野営しているうちに、次々に亡くなったのだろう
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※このあたりは山また山だ。農作物はにんにくなどが採れるが、おそらくそれほど収入にはならないだろう。タイのなかでももっとも貧しいといわれる地域である
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※祓い清めを終え、神送りをして、依り代の御幣を川に流す
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※クンユアムの街にあるムェトー寺院の、慰霊碑。もと日本軍の病院があった。
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※クンユアム戦争博物館。鳥居はさいきん建てられたらしい。博物館はタイ人のつくったもので、県立である。
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※最近この博物館の裏手の空き地で、日本兵の遺骨が多数見つかった。おそらくこのあたりではないかと当たりをつけて、慰霊を行う
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※博物館のなかは、何ともいえない重苦しさがあった。村人が保管していた日本兵の遺品を集めたというが、小銃や刀剣は、兵士が命より大事にするものである。それがなければ戦えないからだ。ものには持ち主の念がこもるという。ここでも祓い清めが必要だと感じ、緊急にお祓いを行った
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※全ての行程をおえて、ほっと一安心し、気軽に運転手と記念写真を撮る。私たちの行為に理解があるように見せていたこの男、さいごのさいごに、約束の値段より千バーツも高くとろうとした。ぼるのもいい加減にせぇよ |
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※クンユアムの谷あいに、日本兵の霊を慰めるための、黄色の菊の花園があるという。いつか訪れてみたい
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ほとんど休む間もなく駆け足でまわった慰霊の旅でしたが、これまでに地道な遺骨収集、慰霊碑建立などの活動をしてこられた方々のおかげで、わりに楽に行って帰ることができました。
帰路につき、折り重なる山々の、ビルマへつづく遠い遠い尾根をながめながら、当時の兵隊さんたちの並々ならぬ苦労と、いまの私たちに与えられた太平の世のはかり知れない価値とに、思いをはせずにはいられませんでした。
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