木村天山旅日記

 

アボリジニへの旅
平成20年7月 

 

第4話

日本の、21倍の大きさの、オーストラリアは、広い。

 

ケアンズから、飛び立ち、アーネムランドのゴーブという街に向かう。

その、果てしない、大地である。

 

資料では、四万年前から、アボリジニ民族が、住んでいたと言われるが、新しい学説を出す、学者もいて、人類の発祥とも、言えるという。

アフリカではなく、オーストラリアが、人類の発生の場だとしたら、これは、大逆転の、学説となる。

 

ゴーブという街は、実に小さな街である。

私の、田舎程度である。

しかし、空港があるという、驚き。

 

エアポートバスに乗り込む。

実は、飛行機の座席は、満席だった。それは、乗り継いで、ダーウィンに行く人がいるからである。

 

私たちは、予約していた、モーテルを告げて、乗り込んだ。

二つしか、モーテルはない。安い方のモーテルである。といっても、一泊、15000円以上である。兎に角、高い。

最初に、私たちが、降ろされた。

 

オーストラリアは、三つの時間帯がある。

ケアンズは、日本より、一時間早い。アーネムランドは、日本より、30分早いのである。

ケアンズと、ゴーブでは、30分の差である。

だから、到着したのは、ゴーブ時間で、八時近くになっていた。

 

飛行時間は、一時間半である。

東京、札幌間程度である。

しかし、私は、こんがらかって、よく解らないのである。

 

野中に、なんで、行きが、一時間で、帰りの時間が、二時間以上もかかるのかと、文句を言った。

時間差だといわれたが、私は、不機嫌だった。

疲れのせいもある。

 

モーテルは、素晴らしい部屋である。

こんな田舎町に、こんな素晴らしいホテルがあるという、驚き。

 

台所から、洗面所から、何から何まである。

電子レンジもある。冷蔵庫は、大型。

一番安い、ダブルの部屋にしたが、その他に、もう一つ、ベッドがあった。

それを、何と言う部屋かは、解らない。

 

モーテルの部屋の前は、蘇鉄などで、覆われて、森の中にいるようである。

部屋は禁煙で、外のベンチに、灰皿がある。

 

オーストラリアも、屋内は、すべて禁煙である。

勿論、空港もである。喫煙室もない。

それで、私は、一回一回、外に出て、タバコを吸う。そして、また、検査のブースを通り、中に入るのである。

毎度の、ことに、検査官も、笑う。私も、笑う。

 

これが、面倒だと、タバコ吸いの、負けである。

私は、意地でも、タバコを吸うために、外に出た。

 

タバコは、大半が税金である。国のために、吸う。愛国心である。

天邪鬼の私は、決して、タバコを止めないのである。

皆が吸えば、止める。

 

さて、夜の食べ物を買うために、モーテルの裏にあるという、スーパーに、走った。

八時に閉店すると、言われたからである。もう、5分ほどしかない。

 

缶ビールを買うために、走った。

ところが、あれである。アルコールは、売っていない。

店内を探し回って、店員に尋ねた。

無いと、言うのである。

 

しょうがなく、ジンジャーエールの炭酸水を買う。

そして、パンや、ソーセージなどなど。

ケアンズから、持ってきたものもあり、適度にした。

 

酒は、無くても、旅の間は、平気である。

疲れると、酒を受け付けなくなる。

ただし、水だけは、よく飲む。

オーストラリアの、水道水は、飲んでも大丈夫である。が、矢張り、ミネラル水を買う。

ゴーブの水は、美味しかった。

 

ベッドに就いたのは、十時であるから、実に早い。

日本時間では、九時半である。

朝、五時に起きる私は、そうすると、夜中に目覚めてしまうのである。

 

明日は、アボリジニの、聖地に行く。

ここの、アボリジニを、ヨォルングと呼ぶ。一つのグループである。

同じ伝承と伝統を、持つグループである。

その中でも、また、グループに分かれる。

 

その、ヨォルングの聖地、ガイガルンに行き、祈りを捧げる。

そして、イルカラ・アートセンターに行く予定である。

その、イルカラには、ヨォルングの人々が、住む集落になっている。

 

子供服支援は、それより先の、ダリンブイ・アウトステーションに行くはずであった。

しかし、結局、イルカラで、支援物資を、差し上げたのである。

その訳は、後で書く。

 

アボリジニに関しては、これから、じっくりと、書くので、ケアンズにて、作る歌を、載せる。

 

朝明けの 静寂を裂く 着陸の 飛ぶ七時間 無事を感謝す

 

神降りる 清しケアンズ 朝の陽に 一筋雲の 書の如くして

 

山と海 拓けし街の 歩みには 人の侵略 赦す如くに

 

歴史無き 街の悲しさ ケアンズの 原住民の 居場所なくして

 

今はただ 見世物のごと アボリジニ 寄せ集めたる 肉体美のみ

 

地の歴史 破壊し尽し 今はまた 価値ありとする 侵略の勝手

 

ただ今は、冬と人は言う 涼し風 冬は冬とも 涼し冬あり

 

我が英語 伝わることの 驚きは 皆訛りある 発音なりて

 

ハローとの 一言発す その後の 延々と続く 豪人の会話

 

白い人 白とは純と 成り得ずや その傲慢と その独善に

 

豪州は アボリジニの ものなれば イギリス王の 支配にあらず

 

海賊の イギリス王の やることは 略奪殺し ゆえもなきかな

 

これらの歌には、後々の、説明で、理解されると、思う。

兎に角、歴史は、凄まじいばかりの、同化政策である。

その、弊害が、今、オーストラリアを覆い、それが、重大な問題となっているのである。

自ら蒔いた種で、自ら、苦難の只中にある。

 

和歌とは、多くの説明を省略して、簡潔にして、表現できるのが、いい。

今は、短歌という。それは、和歌とは、短歌を含む、多くの歌の表現形態が、あったからである。

しかし、私は、和歌という。

 

そういえば、ケアンズで、アボリジニの家族に出会って、会話をした。

朝のことである。

私は、インターネットカフェに出掛けたが、まだ、開店していなくて、街の中心に向かって歩いた。すると、中心の広場に、アボリジニの男がいたので、私は、挨拶した。

彼は、すぐに、自分はアボリジニだと言う。そして、今、母と妹と、妹の子と、一緒だと言うのである。

その母と、妹、その子がすぐに、来た。

旅をしているようである。

 

私が、タバコを吸うと、母親が、見つめるので、一本差し出すと、嬉しそうに、受け取り、自分のライターで、火を点けた。

少し、英語で、会話する。

どこからか、アボリジニの男二人が、やって来た。

私は、三歳になるという子に、何か差し上げたいと思ったが、何もない。

いつも、迷うのだが、その時は、20ドル札を取り出して、プレゼントだと言って、その子に渡した。

母親が、喜んだ。何度も、ありがとうという。

そして、男の子の、ズボンのポケットに、ドル札を入れた。

お金を、渡すのは、実に慎重になる。

 

相手に失礼になるのではないかと、考える。日本人の感覚である。

だから、私は、それを差し上げる時、ソリー、今は、これしかないと言って、差し出した。

 

しかし、お金を差し出したのは、その他に、一回だけある。

遊んでいた、アボリジニの男の子に、一緒に写真をと言うと、快くオッケーしてくれたので、感謝の気持ちで、5ドルを差し出した。すると、彼は、10ドル欲しいと、言うのである。

これは、良くないと、思った。

何も、出さなければ、そいう言葉も、出なかったはずである。

私は、もう無いと、言って、断った。

 

お金を差し出すのは、非常に難しい。

野中が、アボリジニの男に、観光客が、一ドル差し出し、写真を撮らせてと、言うと、男は、金はいらないと言った。そして、撮っても、いいと言うと。それは、恵んでやるという気持ちが、差し出す者にあるからだと、野中は、分析した。

まあ、一ドルは、失礼かもしれない。

物を差し上げる時も、相手のプライドを、傷つけないように、差し上げることを、私は、肝に銘じている。

 

相手と、対等な立場であることを、明確して、支援するということは、実に難しいことである。