木村天山旅日記

 

アボリジニへの旅
平成20年7月 

 

第13話

アボリジニの、土地権運動が、はじまった、きっかけは、1966年である。

 

ノーザンテリトリーに住む、グリンジの牧夫たちの、ストライキからである。

多国籍企業の、ベスティ社を相手取り、給与と、労働条件の改善を要求した。

牧場労働を拒否し、ウエーブヒル牧場の一部を占領して、約一年間を、かけた戦いだった。

それが、次第に、自己決定権と、土地権へと、発展したのである。

 

そして、二年後の、1968年、東北部アーネムランドにある、イルカラのアボリジニが、鉱山開発を行っていた、ナバルコ社を相手取り、訴訟を起こしたのである。

私たちが、出向いた、イルカラである。

 

1931年に、アーネムランドが、保護区指定されているにも、関わらず、首相が、一部の鉱山リースを許可したことを、受けてのものである。

 

しかし、この訴訟は、1971年、ノーザンテリトリーの最高裁の判定で、敗訴するのである。

 

裁判所は、土地が、アボリジニに属しているとは、認めなかったのである。

先住民の、土地所有権という、思想は、オーストラリアの法律に含まれていないとのこと。

つまり、アボリジニの、土地権を否定したのである。

 

それから、イルカラのアボリジニの、運動がはじまる。

首相への、嘆願である。

政府は、しかし、鉱山採掘は、アボリジニの経済発展にも、寄与するという、認識を示した。

その時代背景で、行われた、1972年の選挙で、アボリジニの土地権が、重要な争点の一つとなったのである。

労働党の、ウイットラム政権が、成立した。

 

早速、首相は、アボリジニの土地権に関しての、調査機関となる、王立委員会を組織する。

 

そこで、調査された、報告書で、アボリジニ保護区の土地管理局への信託、鉱物採掘についての、アボリジニの拒否権、伝統に基づく、土地権要求のための、調査委員会設立、アボリジニの土地購入を可能にする、団体の設立という、四の提言がされた。

 

それを、実行したのは、1975年に、政権を担当した、自由党フレーザー政権である。

 

翌年に、アボリジニ土地権法を、成立させたのである。

 

長年に渡り、痛めつけられてきた、アボリジニとっては、画期的な法律である、等々の、アホな学者がいるが、何のことは無い。当たり前のことである。

元はといえば、誰の土地だったのか。

 

しかし、歴史の、流れである。もう少し、見てゆく。

 

ノーザンテリトリーのアボリジニは、これにより、安定した土地権と、経済の発展の可能性を得ることになった。

 

これも、本当ではない。

 

しかし、歴史の流れである。もう少し、みてゆく。

 

この法律に基づいて、1980年までに、約9800キロメートル、ノーザンテリトリーの、約7,3パーセントの広さが、アボリジニに返還されたのである。

その動きは、さらに進み、現在では、約30パーセント以上を、アボリジニが、所有しているという。

 

実に、馬鹿馬鹿しい限りの、話である。

何故、すべての土地にしないのか、である。

 

1990年代までに、オーストラリア全土の、15パーセントが、アボリジニの所有となったという。

私が滞在した、ケアンズのある、クイーンズランドは、最後まで、認めなかったのである。

 

アーネムランドは、悠久の時から、先祖が住んでいた土地である。

それが、1977年に、所有を認められたというのだから、呆れる。

 

私が、出会った人々は、そのアーネムランドのアボリジニの中の、北東に住む、ヨォルングの人々である。

 

ヨォルングとは、彼らの言葉で、人間という意味である。

お解りか。

彼らは、人間であると、認識しているのである。

 

その彼らの、文化は、イギリス人の頭の程度では、決して、理解し得ないほどの、複雑なシステムを、持つ。

 

ヨォルングは、伝承と、伝統を基にした、まとまりのある、地域集団を、構成するが、その定義は、不明で、困難を極めると、心ある学者は言う。

 

外部の者が、見て、違いの明確さは、言語体系であるという。

 

ヨォルングとは、同じく、ヨォルングという言語を共有する人の集団を意味する。

その、言語は、約50の言語に区分けされる。方言と、考えると、解りやすい。

方言は、誤解される、というから、それらを、まとめて、ヨォルング言語と読んでもいい。

 

アーネムランドの中の、アボリジニの中でも、ヨォルングは、特に複雑な、社会構成を成している。

更に、その神話である。独特な精神文化を持ち、それらは、すべて、神話で語られるのである。

 

創世神話に現れる、祖先の霊が、ヨォルングを旅して、あらゆる存在を、創造してゆく。

その、祖先の霊を、ここでは、特別に区分けして、精霊と呼ぶ。

その精霊は、さらに先祖たちに、言語、神話、踊りなどの、必要なすべての、ものを、与えた。

その神話に基づいて行われる、儀礼は、ヨォルングの人々に、共有される。

 

人類学者たちは、彼らを呼ぶのに、色々な名称を使ったようである。

ご苦労さんである。

 

ここで、面白いことは、神とか、仏とかいう、人間と、隔絶したものではなく、祖先の霊を精霊として、さらに、その精霊が、彼らの先祖に、色々と、教えたという。つまり、先祖崇敬の、民族であるということだ。

 

先祖の前を、祖先と呼んで、別にしておく。

すぐの、先祖は、祖先に、色々と、教えられて、こうして生きてきたのである、という、考え方である。

 

だから、目の前にあるものは、すべて、祖先と、先祖の姿なのである。

 

私が、それを、すぐに理解できたのは、日本民族が、そのようだからである。

つまり、先祖を神として、御祭りし、自然の、あらゆる働きも神と、観て、先祖と、自然の共鳴により、成り立つ、我々の人生であるという、考え方である。

 

総称して、大和心と、言う。

彼らは、目の前のもの、祖先と先祖であると観る。

私たち、日本人も、同じく、自然との共生、共感によって、生きるのである。

更に、日本の祖先と、先祖は、自然の中に、お隠れになるのである。

 

彼らと、同じではないか。

 

彼らは、それを、目の前のもの、先祖の夢であるという。

私たち、日本人は、目の前のもの、神遊ぶというのである。自然の様のことである。

 

さらに、深く、ヨォルングの精神と、その組織を、語れば、終わらなくなるので、以下、省略することにする。

 

ただ、ドリーミングということに、ついては、もう少し、説明したと思う。

それもまた、日本の、事挙げせずという、心得に通じていて、語らずに、ドリーミングで、伝えるという。それは、所作で、伝えていた、大和民族と、同じである。

 

言葉で、伝えると、誤るということを、十分に知ってのことである。

 

どうであろうか。

言葉で、何事かを伝えた、民族の有り様は、すべて、言葉にかき消されて、しまいに、解釈の仕様で、いかようにでも、相成ったという、ザマである。

 

彼らは、絵によって、伝える。

日本は、所作と、最低限の言葉、和歌の伝統、歌道によって、伝える。

 

絵によって伝えた民族の代表格は、ケルト民族である。

私が、このアボリジニ追悼慰霊の旅の前に、出掛けた、カレン族の村も、所作によって、伝えていた。

 

最も、象徴的だったのは、注連縄である。

日本では、神の領域としての、結界の意味がある。

カレンの村も、それである。

更に、年中、家の玄関に、注連縄が張ってあるのだ。

祭りの時の、場所にも、注連縄が、張られて、その中で、儀式が、行われる。

 

そして、それらの、民族に共通するものは、自然観である。

自然を、支配するという、傲慢不遜な、考え方は無い。

自然の内に、生きるというものである。

 

更に、深まると、私は、自然なのであるという、極みに至る。

 

日本が、滅びる、更に、滅びているのは、中国と、同じく、自然を破壊しても、金に目が眩むということである。

 

いつから、日本の、特に為政者たちが、中国人のようになったのか。

厳密に言えば、漢民族のようになったのか。

もう一つ、おまけに、あの、西洋の、自然支配の、思想を、いつから、受け入れて、傲慢不遜に、自然を破壊し始めたのか。

 

自然は、私であるから、自然を破壊するめことは、私を破壊することなのである。

 

ほんの百年たらずしか生きられない者が、何ゆえ、使い切れないほどのお金のために、土地を転がし、自然を破壊し、先祖の夢を、無残に壊すのか。

 

こういう、状態を、自害して、果てよという言葉になるのである、私の中では、である。

 

ちなみに、私が、出掛けた聖地の、ドリーミングには、蛇と、睡蓮の花というのは、彼らのトーテム、つまり、ご神体のようなものであった。

先祖を、蛇としたものは、生命力のものであり、睡蓮は、その精神だと、私は、勝手に、想像する。