木村天山旅日記

 

アボリジニへの旅
平成20年7月 

 

第16話

現在、オーストラリア全土の、17パーセントが、アボリジナルに返還された。それは、日本の面積を、遥かに超える。

とは、いうものの、元は、アボリジニの大地であった、オーストラリアである。

 

問題は、この後である。

 

しかし、この土地権法も人類学者も、返還された土地でのアボリジニへの英語の教育や、住宅、住民の雇用についてはほとんど何も配慮していなかった。そのなかでの土地の返還は、アボリジナル文化の回復やそのあらたな展開には大きく貢献した。だが、まさかそのことが、ヨーロッパ人と混在するマイノリティとしてのアボリジナルにくらべて、彼らに教育をはじめとするさまざまな不利益をもたらした。それらへのやり場のない不満が、多発する暴力へとつながってきたというのである。人口のうえでアボリジナルが優勢なコミュニティを中心に、彼らによる生き方の選択は、いまあらたな局面を迎えているのかもしれない。

ブラックフェウウェイ 松山利夫

 

 

オーストラリア政府は、シングルマザーへの、社会保障の給付金を、男性のそれよりも、高くした。

そのために、パートナーである男性は、しようがなく、金銭的に優位な、女性に従うことになる。

最初から、男性の男性性というものを、否定する状況になり、それが、暴力を生むことになった。

 

更に、若者たちの、暴力である。

それだけではない。

家庭内暴力、薬物、アルコール、レイプなど、多数の問題が、起こっている。

 

そんなことは、白人がいない、アボリジニの世界では、考えられないことだった。

直接、間接的に、それらは、白人がもたらしたものである。

 

結局、現在に至っても、アボリジニに対する政策は、根本的に、変化していないのかもしれないと、思う。

社会保障という、名目で、失業保険などを、支給し、アボリジニの労働意欲を失わせる。アボリジニの働く場所が、極端に少ないのである。

 

無職で、政府の保護により、生きるという、ブラブラした人生の道以外に、方法がない。

 

アボリジニが、商売などをしているのを、見ることがなかった。

ただ、一日を、ぼんやりと、過ごしている。

彼らが、シャキッとして、活動出来るのは、祭りの時のみである。

 

ある、一部知識人と、教会、ミッション系の人々によって、理解されているが、庶民の間での、アボリジニの理解は、遠い。

 

アボリジニの大半が、今は、キリスト教徒である。

私は、それを、否定しない。

ここ、ここに至っては、否定しても、ミッションの力を、借りなければ、立ち行かないからである。

 

キリスト教も、ドリーミングなどの、彼らの、伝承を否定せずに、成り立っているという。

 

だが、キリスト教の中には、根強い、差別がある。

アボリジナルは、アダムと、イブからは、生まれず、神の創造にはなかったとする。

その一方では、神は、二つの人々を、別に創造したのである、というお話がある。

 

キリストが、白人を創造し、アボリジニは、その弟子である、フィリポという、色黒のものから、誕生したという、お説である。

 

学者や、研究家の、限界は、アボリジニの伝承、伝統を、既成の宗教観念で、捉えるということである。

 

何故、アボリジニの人々が、キリスト教を受け入れるのかは、彼らの、それは、宗教という概念に、入らないからである。

また、宗教という観念もない。

ゆえに、キリスト教徒になり、折り合いをつけることが出来る。

 

彼らの、行為行動は、伝承であり、伝統であり、それは、宗教の概念を超える。

どの、著者のものを、読んでも、アボリジニの、伝承行為を、宗教、あるいは、宗教的だと、判断している。

それが、誤りである。

 

勿論、教会の多くも、アボリジニの伝承、伝統を、守るという姿勢を、持つ。当然である。

それを、破壊するとなると、全面対決になるだろう。

それは、アボリジニの最後の、戦い。

 

ここまで、譲歩しているのである。

それ以上に、侵略してきたら、我慢ならない、のである。

 

白人宣教師の、多くは、現地人を、無意識に、蔑視する。

それは、唯一の神を知らない者たちという、傲慢な意識があるからだ。

それは、彼らから、脱ぐい切れないものである。

骨の髄まで、染み付いた、悪魔の教えである。

 

18世紀から、そういう、白人の世界制覇と、世界支配によって、歴史は、動かされた。

実に、多くのアジアの国の、多くの問題は、白人の植民地時代による、弊害によって、なっているということである。

 

だが、後戻りは、出来ない。

 

後戻りは、出来ないから、新しい手法を、見出さなければならない。

 

オーストラリアは、アボリジニの、特別自治を、自治政府を、樹立させるへきだと、思うが、一時、そういう、考え方が、出されたが、白人も、アボリジニも、それを、忘れた。

 

異文化を、融合させるという、方法は、ある。しかし、出来ないものも、ある。

基本的に、生活の方法が違うのである。

それを、一緒にするということには、限界がある。

 

白人の社会に、無理に入り、生きるというする、アボリジニは、いつまでも、無理な生き方を、強いられる。

自然支配という、考え方の、白人と、自然と共生するという、考え方の、アボリジニが、一緒に生活など、出来ない。

その、出来ないことを、明確にすることである。

 

テリトリーを、侵さないという、協定の元に、アボリジニの自治政府を樹立させることだと、思う。

 

勿論、理想である。

 

白人社会と、うまく、折り合いを、つけて、その社会に進出するアボリジニも、少ないが、いる。

 

しかし、それは、稀に見るべきことである。

 

松山利夫さんによると、

長い被殖民の歴史の中で、成人儀礼や婚姻をはじめとする社会システムを崩壊させられた彼らは、比較的近親な言語文化をもった集団を再統合し、これらの呼称を用いている。

 

つまり、アボリジニの呼称を嫌い、アデレードや地方町の、コミュニティにみられる、ヌンガやマリーという、呼称を用いている。それは、各地に広がり、ビクトリア州では、クーリィを、西オーストラリアでは、アナングゥと、自らを呼ぶ。

 

黒い白人

 

自分たちの、アイディンティティを、持つべくの、黒い白人という、呼称。

何という、愚かしいことか。

私は、白人を差別しない。

黒い人も、差別しない。

 

ただ、区別はする。

生き方の、区別もする。

山に生きる人と、海に生きる人とでは、生き方が違う。

それを、知ることである。