ドリーミングについて、書く前に、予備知識として、その社会組織について、書く。
ヨォルングは、全体で、単一の集団ではない。
細かく、複数の父系出自集団である、クランに分かれる。
クランとは、神話的な祖先の精霊を、共有する集合体である。
その、神話的な祖先はまた、複数いて、様々な場所で、多様な活動を行った。
神話的祖先たちは、アーネムランドを、縦横無尽に旅をしたのである。彼らの、行く先では、道が川になり、谷になり、彼らが、留まった場所は、くぼ地になったり、泉ができた。
彼らが、血を流したところは、土が赤い粘土になった。
以上を見ると、日本の神々に似るのである。
祖先たちは、歌を歌い、踊りを踊って、儀礼を行った。
そして、旅の進行と共に、言葉さえも変えたという。
それぞれの、土地に生み出した人々に、その地でできた言葉、地形と、自然現象、動植物を含む特定の地域に、そこに関する、歌と踊りを伝え、それぞれに、責任を持たせたのである。
特徴的な、地形は、それぞれのクランの聖地となった。
クランの、聖地を生み出した神話的祖先の物語全体が、クランの神話であり、そこに、現れた、自然現象、動植物は、トーテムとなるのである。
そして、その場所で、話していた言葉、方言が、それぞれの、クランの言葉となった。
クランは、父系であり、子供は、すべて父親と、同じクランに属する。
ヨォルングの人々は、父系を辿り、神話的祖先にまで、つながっているのである。
ヨォルング全体では、約50の、クランがいるとされる。
クランは、言語、つまり、方言の、単位と、考えてもよいのだ。
どのクランに属しているのかが、自己のアイデンティティになるのである。
さて、それを踏まえて、もう一つの、組み合わせがある。
ヨォルングの、神話的祖先の中に、重要な存在がある。
ジャンカウ姉妹と呼ばれる二人と、その兄である。
そして、バラマと、ライジュンと呼ばれる、二人の男がいる。
この二つの、祖先の神話が、それぞれの、クランの聖地を作る。
そして、それぞれの、祖先の道筋の土地に住むクラン同士は、強いつながりがある。
大きな儀式は、その単位ごとに行われ、この単位を半族と、呼ぶ。
ジャンカウの道筋に土地を持つ、クランは、ドゥワ半族に、属し、ライジュンの道筋に土地を持つクランは、イリチャ半族に、属する。
つまり、ヨォルングは、父系のつながりと、二つの半族の、いずれかに、属して、自己のアイデンティティを持つということだ。
実に、複雑である。
さらにである。
この、半族の、ドゥワと、イリチャというのは、人間だけではなく、動植物を含めて、すべてのものが、この二つに、区分けされるということである。
つまり、二組の、神話的祖先の旅に従って、分類されるという、複雑さである。
それを、子供の頃から、身につけさせられるのである。
私は、それを、聞いて、すぐに理解が、出来なかったのである。
さらに、結婚相手の、関係については、複雑過ぎて、未だに理解できず、ここに書くことが出来ない。
この、アボリジニの、深い、洞察力は、ドリーミングという、行為において為される。
森羅万象は、祖先の夢である。
つまり、祖先の霊的存在が、夢を見たものを、目に見える形にしたものが、今、目の前にあると、考える。
それは、過去であり、現在であり、未来である。
だから、今、なのである。
祖先の夢は、今、実現されているのである。
ここで、禅宗を持ち出すが、あれらの、空論が、ここでは、現実なのである。
知的遊戯ではないのである。
アボリジニには、今現在、ただ今が、祖先の夢の現われなのである。
ドリーミングを、まとめると、祖先の神話と、神話で語られる自然と聖地、神話の中の出来事による、社会的規律、儀礼、そして、神話を通して関係づけられる、それぞれのクランとの、関係と、特定の自然物との、関係である。
この、複雑さに、耐えられるだろうか。
そのような、常識の無い、西洋人に、理解が、出来るだろうか。
私は、八百万、千代万の神というものを、日本の伝統から、知り、さらに、神話というイメージも、持つゆえ、かろうじて、理解の端に立つことが出来る。
勿論、これらの、多くの研究は、西洋人の学者によっても、検証された。
しかし、検証して、知ることと、理解することは、別物である。
私が出掛けた聖地は、ジャルーの娘さんが、描いていた、蛇と、睡蓮のイメージのある、聖地である。
だから、それを、私は、見せられたと思った。
それを、見るために、ジャルーの家に行くことになったと、思えた。
あの、聖地の底には、祖先の思いであるモノが、蛇の形をして、いるのである。
そして、睡蓮の花。
まさしく、ドリーミングである。
しかし、「白人」側は、あくまでもアボリジニとその文化は西洋型理論に頼った学問分析で定義されなければならないと考えていました。アボリジニ側が主張するように、知性に頼る理論だけが浮遊して、身体をとおして学ぶ知というものが置き去りにされていました。身体をもって経験することにも、ひとつの大きな意義があることが見過ごされていたのです。
青山晴美
ここで、身体を通して、学ぶ、知、というもの。
それを、知らないという、西洋型学問の、知、の様である。
それは、西洋思想と、東洋思想との、ギャップでもある。
西洋の、知と、東洋の、知とは、違うのである。
同じ知性と、言っても、全く、その姿が、違う。
キリスト教、聖職者が、禅を理解するのに、理屈を求める。
そして、理屈で、納得すべくの、問いを発する。しかし、答えられないものがある、知、というものを、知らないのである。
更に、同じ言葉の遊戯による、禅と、キリスト教の、知、というものも、全く違うものである。
さらに、日本の知性というものは、間合いの知性である。
文で言えば、行間の、知性である。
行間を、読むという、芸当が、出来るのは、日本人である。
西洋型、知性を、叩き込まれると、行間を読むという感性を、間抜けなものと、認識するという、愚である。
愚、というしかない。
完全完璧に、説明するという、知性というものは、果たして、ありえるのだろうか。
そのために、アボリジニが、ドリーミングをするように、日本では、芸というもの、所作というものに、託したのである。
所作である。
知性を、所作に託すなどとは、どこの民族も、出来ることではない。
アボリジニの、身体を通して、学ぶ、知、というもの、実に、日本人として、理解する。
更に、簡単に言う。
目に見えないものは、信じませんと言う人がいる。
しかし、目に見えない空気を吸い、目に見えない、太陽光線からの、栄養を頂いて、生きているのである。
愚、としか、いいようが無いのである。
霊は、目に見えないから、信じません
お前には、見えない、感じないだけである、と、いいたいが、言わないで置く。
私は、見えないが、存在を知っている。
何故か。
身体を通して、見えるからである。
だが、である。
その違いが、実に楽しい。
何と、世界というものは、楽しさに、充ちているのか。
それが、平和であれば、更によい。
神話を、持たなくなった、日本人の中には、30代で、使えないほどの、金を得て、40前に、癌で、死ぬという者、多数。
憐れである。
極めつけは、お金は、すべて、棺桶に入れてくれと言うのである。
こーんな、男に、誰がー、したー、というところだ。
憐れな、日本人という、エッセイを書いてもいい。
だいぶ、情報を得た。
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