タイ北部 巡礼の旅
タイ・ビルマ戦線、つまり、インパール作戦により、戦病死した、日本兵の、追悼慰霊碑を、中心にした、地域の、巡礼である。
まず、最初は、チェンマイ県、バンカート村にある、バンカート学校敷地内の、慧燈財団の、追悼慰霊碑と、梵鐘である。
バンコクから、チェンマイに、行き、チェンマイから、車で、一時間程の、場所である。
ちなみに、チェンマイは、国際空港であり、チェンマイに直接乗り入れる飛行機もある。
チェンマイを基点にして、行動すると、次は、チェンマイから飛行機で、30分の、メーホンソーンである。
メーホンソーンの市内から、車をチャーターして、トーペー寺を目指す。
その途中に、山道に、追悼慰霊碑がある。
注意深くして、行かないと、見失う。
そして、更に、山に入り、クンユアム旧日本軍博物館がある。
その建物の、前に、追悼慰霊碑がある。
その道の、反対側に、旧日本軍の病院跡があり、そこにも、いくつかの、追悼慰霊碑がある。
現在は、お寺になっている。
そして、車を走らせて、ターペー寺に向かう。
お寺が、建てた、慰霊塔と、慧燈財団の慰霊碑がある。
そして、私の個人的、慰霊は、タイ北部、国境の町、メーサイである。
チェンライから、車で、一時間半である。
ミャンマー側の町は、タチレクである。
慰霊は、国境の橋の下で、行う。
慰霊碑も、それに関するものも、何も無い。
タイ側に、国境の碑が建てられてある。
そして、最期が、ゴールデントライアングルといわれる、タイ、ミャンマー、ラオスの国境が、交わる、ソップ・ルアク村である。
メコン河と、ルアク河が、交わる場所である。
そのまま、メコン河沿いを、行くと、チェンセーンという町に至る。
ソップ・ルアク村にも、宿泊施設はあるが、私は、チェンセヘーンの町に宿泊した。
車で、30程度である。
トライアングルには、慰霊碑は無い。
トライアングルの、記念碑と、大きな仏像が、建てられてある。
その、山に登り、頂上の寺の敷地内に、三基の追悼慰霊碑が、建てられてある。
私は、そこを、最期に慰霊した。
北部の、慰霊の旅は、以上である。
それぞれの、町を楽しみつつ、慰霊を行う旅というものを、提唱する。
ただし、すべてを、回るには、10日以上の日程が必要である。
私は、何度かに分けて、行った。
ミャンマー国境の、メーサイに行くには、チェンマイから、バスか、バンコクから、チェンライまで、飛行機に乗り、チェンライから、バスか、車である。
バスの種類が、多いので、どれを選ぶかは、それぞれの、好みである。
地元の人が利用する、普通バスから、一等エアコンバス、そして、VIPバスなどてある。
チェンセーンから、一時間半のチェンライ行き、普通バスに乗ったが、それが、限界だった。車酔いになるほどの、揺れである。
ただし、地元の人の生活が、垣間見られるという、利点がある。
追悼慰霊碑に対しては、それぞれの、宗教行為で、対処するとよい。
もし、宗教が無いというならば、黙祷である。
祈りの、理想は、黙祷である。
番外編としては、バンコクから、車、バスで、一時間半の、カンチャナブリである。
戦場にかける橋という、映画で、有名になった、泰緬鉄道である。
日本鉄道が、建てた、慰霊碑がある。
更に、連合軍墓地である。
それは、二つあるが、最も多いな墓地が、市内にある。
バンコクから向かうと、その墓地の横を通り、市内に入るので、解る。
タイ・ビル戦線の慰霊碑は、ミャンマーの、マンダーレにある。
私が、次に向かう場所である。
そこでは、慰霊碑の取り壊しが、行われはじめている。
つまり、日本側の人が建てた、慰霊碑の管理が出来ないという理由である。
戦友会はじめ、遺族が建てた、慰霊碑である。
放置しておくには、哀れである。
そうかといって、そのままでは、地元の人に、申し訳ないということである。
私に、何が出来るのか解らないが、追悼慰霊には、出掛ける。
私が、生きている限り、年に一度は、慰霊を行うということで、管理を引き受けたいとも、考えている。
インド・インパールから、ビルマを通り、タイへ向かった、兵士たちである。
その道には、未だに、遺骨が、晒されている道もあるはずである。
すべての、霊位に、心から、哀悼の意を、捧げる。
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