木村天山旅日記
 ゴールデントライアングルへ
 
平成20年
 10月
 

 第1話

タイ、北部に残された、最後の慰霊の地、ゴールデントライアングルに向かう旅である。

 

今回は、その旅の前に、色々なこと、また、考えることがあった。

 

まず、瀕死の父である。

九月と、十月に見舞った。続けて、田舎に帰るのは、異例のことだった。

そして、危ないといわれた時期、私は、タイに向かう。

矢張り、タイ滞在中に、父が亡くなる。

 

旅の前に、見舞いに行った時、最後の別れをしていたので、私は、ただ、ぼんやりと、父の死を受け入れていた。

三日の朝である。チェンマイのゲストハウスに似た、ホテルで、その報を受けた。

 

父は、私の元に来たと思うが、それは、かすかなものだった。

その翌日、丁度、炊き上げの時間に、父の声が胸から、聞こえた。

俺、焼かれている、というものだった。

独特の調子の、方言ある言い方である。

 

悲しみはない。

 

死を明確に自覚している、父に、安堵した。

 

人の死の、状態を説明するのは、至難の業である。

心臓が止まった。それで、死を判定する。中には、脳死の場合もある。

私が言いたい、死の状態とは、魂と、心の状態である。

 

一部に、この世に少し留まる、荒魂、あらみたま、というものがある。

それが、動く。

自分の死を知らせるために、姿を見せるのは、それである。

 

父は、その姿も、かすかに見せただけである。

ほとんど、この世に未練は、無いのである。

 

私が、見取った、カウンターテナー藤岡宣男の場合も、一切、姿は、見せなかった。

完全に、死を自覚し、この世に未練が無かったといえる。

 

さて、今回、私は、タイ北部、ビルマと、ラオスと、タイが接する、国境地帯に、慰霊に出掛けた。

 

バンコクに到着し、そのまま、翌日一番のチェンマイ行きの飛行機に乗り、チェンマイに、一泊して、翌日、車で、メーサイという、ビルマ国境の町に行く。

そこで、一度目に出掛けた時に、出来なかった、追悼慰霊をする。

そして、ビルマの、タチレクに入り、衣服支援をして、ゴールデントライアングルに向かうのである。

 

その、移動は、バス、ソンテウという、乗り合いバスで行く。タイ特有の、乗り物である。

 

追悼慰霊に関して、一点の曇りもない。

ただ、衣服支援である。

持てる量が、足りないのである。

大々的な支援が、出来ない。

ほんの、一握りの、人に手渡すのである。

 

実に、地味な行為であり、それに、悩んだ。

あれば、いいが、無くても、いい。

無ければ、無いなりに、やり過ごすことができる。

 

私は、慰霊のついでに、行っているという、方針であり、善意の行為などとは、考えていない。名義上ボランティア活動としているが、世に言うボランティアとは、違う。

 

どう、違うのか。

 

ボランティアという語源は、ラテン語の、ボルンタスであり、その意味は、生きる意味意識ということである。

ボルンタスが、動詞になり、それを、行為することを、ボランティアという。

つまり、生きる意味意識の行動ということになる。

 

それは、相手側の問題ではなく、こちら側、それを、する側の問題になる。

この行為に、生きる意味意識を見いだすか、否かである。

 

私は、その行為に、それを、見いだす。

実際、多くの出会いがあり、更に、皆と、親しくなり、打ち解けて、親戚の人のようになる。

 

土地が違えば、人も違う。しかし、人の情けというものは、変わらない。

 

今回は、子供のものが多く、国境の橋の上で過ごす、男の子の、サイズに合うものがなく、私は、彼らを連れて、市場に行き、ズボンを買って上げることにした。

しかし、それは、付け焼刃である。

 

二人と、指名したが、もう二人の子が着いてきた。

一人の子は、孤児で、15歳である。他の子は、母子家庭であり、皆、学校には、行けない。

彼らは、アカ族である。

 

国境の橋での、ストリートチルドレンは、皆、アカ族の子供たちである。

大きくなっても、そこに、暮らす子供たちも、多い。

今回は、そういう、子供たちにも、出会った。

 

ただし、皆、男の子である。

前回、行った時は、幼児に近い女の子も、いた。

しかし、今回は、皆、男の子である。

 

女の子は、ある程度の年齢になると、連れ去られる。

書きたくないが、ミャンマーには、児童買春を取り締まる法律がない。

 

タイの、メーサイから、ミャンマーのタチレクに入ると、児童買春が、当然の如くある。

だから、国境を越えて、児童買春のために、ミャンマーに入る欧米人、日本人がいる。

 

話を戻す。

衣服支援の、限界は、持参する物以外に無いということである。

それに、合わないサイズの子には、差し上げることが出来ないのである。

すると、今回のように、買って上げるという、暴挙になる。

 

金さえあれば、それは、いくらでも、可能である。

しかし、私の行為は、それではない。

 

市場に出掛けて、一人の子は、丁度良い物があったが、他の子は、好みの物が無いと、別の市場に行くと言う。

私は、時間が迫り、一緒に行動することが、出来なかった。しかし、買うと、約束したのである。

仕方なく、お金を渡すことにした。

 

これが、後味の悪い物になった。

 

私の、ボランティア活動を、逸脱したのである。

 

金を渡せば、済むこと、という、欺瞞に、私は陥ったのである。

ただ、救いは、彼らは、確実に、ズボンを買いに行ったということである。

 

ストリートチルドレンに、お金を渡すと、他の大人に取られるということを、聞いていたから、決して、お金は、渡さないと決めていた。

 

日本円にして、1500円程度であるが、彼らには、大金である。

 

心を緩めると、このような、状態に陥る。

実に、危険である。

私は、何様ではない。

単なる、貧乏な日本人であり、追悼慰霊が、主たる、目的であり、支援が目的ではない。

その、目的の、ブレが、今回、私をして、悩ませた。

 

15歳の男の子は、孤児であるから、寝るところも無い。

食べ物は、どうしているのかと、問うと、皆から貰うという。

 

そして、よく、見ていると、皆、持ち物が共有感覚なのである。

誰かに、差し上げると、それが、皆で使い回しされる。

 

貧しさも、共有するものなのである。そうして、生きられる。それも、彼らの知恵である。

 

最初に、ズボンを買った子は、一番小さな子だった。

後の、三人が、別の市場に行くという時に、私が、手渡した、金額に、15歳の子が足りないと言ったらしい。

すると、その子が、それで買えると、言ったと、スタッフから聞いた。

良識というものが、ある。

小さな子には、良識があった。

いくらでも、貰えるなら、貰うという、乞食根性が無い。

 

後で、15歳の男の子について、スタッフと、話し合った。

孤児であるが、小奇麗な恰好をしていた。更に、唇に、小さなリングを入れていた。15歳と、いう年齢は、分別がつく年である。

スタッフは、観光客に、体を売っているのかもしれないという。

確かに、それは、考えられる。

 

私は、橋の上で、昨年出会った子供たちを、捜したが、姿無く、橋を抜けて、タイ側で、衣服を配った。

子供たちは、勝手に、国境の橋から、タイや、ビルマ側に、降りても、何も言われないのである。

 

そこで、差し上げていると、橋の上にいた、チルドレンが、大きくなった、高校生程度の男の子たちも、それが欲しい、あれが欲しいと、橋の上から、指差すので、差し上げた。

 

最後は、衣服を入れてきた、大きなバッグまで、上げた。

 

その様子を、タイの軍兵が、じっと見ていた。

背中には、機関銃を負っている。

ミャンマーなら、軍兵に、何か言われる可能性もある。

 

私の問題は、私自身の問題として、旅の間、考えることになった。

 

慰霊のついでに、行う衣服支援は、日本に対する、日本人に対する、その地の人の、イメージを、創造するものである。

日本や、日本人は、友人であるという、意識を持って頂きたいというものである。

 

戦争により、彼らの、祖父母の時代を、滅茶苦茶にしたのである。

その、後遺症は、計り知れない。

それを、知れば知るほど、私は、日本人として、彼らに対座するのである。

 

それを、踏まえて、この旅を書く。

本日は、何を食べるかと、考える日本人である。選択の余地がないという、人が、世界には、日本人の人口より、多いのである。