木村天山旅日記
 ゴールデントライアングルへ
 
平成20年
 10月
 

 第3話

翌朝、10月30日である。

ホテルの、バイキングの朝食を食べた。

思う存分食べた。

 

そして、水を買いに、ホテルを出た。

ホテルの前に、タクシーが止まり、勧誘される。

私は、バスターミナルまでの、料金を尋ねた。120バーツである。

10時に、乗りたいと言うと、オッケーと言うので、そのタクシーに乗ることにした。

 

部屋に戻り、スタッフの野中に、10時出発と言う。

野中は、ようやく起きて、食事に出た。

いつも、夜行性なので、朝は苦手である。つまり、低血圧なのである。

子供の頃、実に苦悩したという。

子供の低血圧は、理解されない。

いつも、学校に遅刻したらしい。可愛そうに、である。

 

実は、私も、低血圧であるが、行動がキビキビしている。

つまり、生き急ぐのである。

これは、小学四年生からのことである。

人が死ぬものであることに、気づいた時期である。

 

さて、10時になり、荷物を持って、チェックアウトして、ホテル前を見ると、タクシーが、ホテル前に準備していた。

 

運転手が言う。どこまで行くのか。

チェンライ。

チェンライなら、2000バーツで行くよ。

いや、チェンライの先の、メーサイまで行く予定だ。

それなら、2500バーツで行く。

いや、バスの方が、腰にいいから、バスで行く。

バスなら、六時間かかる。これなら、三時間で、行く。

 

要するに、タクシー運転手は、バスより、タクシーの方がいいと言うのである。

 

私が、渋ると、メーサイまで、2000バーツで行くと言う。

約、6000円と少しである。

バスなら、二人で、600バーツである。約、2000円。

運転手は、兎に角、時間が半分だと、交渉する。

 

さて、どうするか。

タクシーだと、バスと違い、時々、止まったり、好きなように出来る。

その通り、止まったり、観光も出来た。

運転手は、懸命に売り込む、更に、譲らない雰囲気なので、私は、よし、オッケーと言った。

すると、運転手は、ヤッターという感じで、ハンドルを切った。

 

4000円の、差である。

確かに、タクシーに乗った成果は、あったと思う。

バスならば、見ない所も、見た。

途中で、止まり、食事もした。

ケチるという、旅もあるが、時々、ケチらないときも必要である。

 

絞りたてジュースを買ったり、茹でた、とうぎひを買って食べた。

そして、私たちは、テレサテンの、演歌を聴き続けたのである。

運転手が、テレサテンの歌、日本の歌が大好きだという。

 

テレサテンが、持ち歌以外の、多くの日本の歌、童謡もあるが、それらを歌ったものを、私は、初めて聴いた。

日本語も、中国語も、英語の歌も、実に巧い。

日本の歌を、中国語で歌うものもあった。

気づいた時は、私も、一緒に歌っているという、有様。

 

ところで、運転手は、片言の日本語を話した。

その訳は、六年間、新宿歌舞伎町で、タイ料理の店で働いていた経験があるのだ。三ヶ月のビザで、六年である。

二十年ほど前のことである。

 

チェンライに近づくこと、あと14キロの地点に、タイのアーティストである、チャルーンチャイ・コーシピパットがデザインした、寺院がある。

運転手は、私たちを、そこに連れた。

 

ワット・ロン・クンという、寺院である。

寺院は、1997年から建設が始まり、今も、続行している。

本堂では、彼の描いた、仏画が、本尊となっている。

実に、白尽くめで、不思議な寺である。

 

観光客は、多かった。

特に欧米人である。

 

寺院全体が、芸術化している。

宗教、仏教というものを、使い、芸術活動をするという。それもまた、芸術である。芸術は、宗教を超える。

宗教は、一つの芸術活動ともいえる。ただし、芸術の方は、余計な教義が無い。

 

運転手は、私たちが、写真を撮らないのが、不思議そうだった。

彼は、私たちの目的を、知らない。

私たちが、写真を撮るのは、別のことで、なのである。

 

運転手と一緒に、タイのラーメンを食べた。

日本のラーメンと違い、半分ほどの量で、腹にもたれない。少し、物足りないのがいい。

 

チェンライを抜けて、メーサイへ向かう。

タクシーは、飛ばした。速度の規制が無い。

どんどんと、追越をかける。

 

ようやく、テレサテンも終わり、ただの音楽になった。

メーサイに向かう時、私は、うとうとしていた。

運転手は、六時間のところ、三時間で、着くといったが、三時間以上になっていた。

途中の立ち寄りを入れて、五時間ほどになった。

 

国境の一本道に入り、ホッとした。

ホテルは、どこかと、訊かれて、まだ決めていないが、国境の近くだと言う。すると、オッケーと言い、新しいホテルね、と言う。

新しいホテル。

そんなの知らない。

だが、私は、そうそうと、答えた。

その新しいというホテルに到着した。

 

値段を訊いて、高ければ、別のホテルにしょうと、思った。

ホテルの駐車場に車を入れる。

ボーイが来て、荷物を運ぶ。

運転手とは、そこで、さよならである。

2000バーツを支払った。

 

フロントで、料金を尋ねると、800バーツである。朝食付き。

疲れたせいもあり、ここに決めた。

メーサイでは、高級ホテルに入ることになった。

 

部屋に荷物を入れて、しばし、休む。

大きな部屋に、ベッドが二つあり、リラックス出来た。

ただし、この程度の料金のホテルは、これが最後である。

次は、ゲストハウスで、350バーツ、そして、チェンマイのゲストハウスに似たホテルは、400バーツである。

 

夕暮れが迫る。

少し明るい内に、偵察した方がいいということになって、私たちは、町に出た。出たといっても、国境の辺りである。

国境の橋の下を歩いた。

商店街である。

橋の下の、川を見た。

明日の、慰霊の場所を決める。

タイ側で、慰霊の儀を執り行い、国境の橋の上で、神呼びをして、霊位を御呼びし、依り代に迎えて、霊位をタイ側に送るのである。

 

国境を入れないという、霊位の想念を取り除くのである。

タイ側に連れて、そこから、解放されたと、感じた霊位を、故郷にお送りする。ただ、それだけ。

 

慰霊の場所を見て、国境の橋を、見上げると、子供たちがいた。

手を振り、声を掛ける。

すると、何と、子供たちが、橋を降りるのである。

身軽に、ヒョイと、飛び降りる。

しかし、誰も、何も言わない。警備員も、来ない。

 

明日、服を持ってここに来るから、皆を呼んでと言う。

英語は、通じない。野中が、タイ語で、言うと、頷いた。

皆、初めて見る顔である。

一番背の高い子に、年を尋くと、15歳と言う。

彼は、孤児だった。

どこに寝ているのと、尋くと、コンビニの前だという。

コンビニということは、タイ側である。

ミャンマーには、コンビニは無い。

 

国境の前にある、コンビニが、彼の寝床である。

後で、そこが、最も安全な場所だと、気づく。

物乞いたちも、コンビニの前にいて、過ごしていた。

夜の間、最も明るい場所なのである。

 

彼らと別れて、橋の下を通り、歩くと、マッサージの店があった。

そこで、フットマッサージを受けることにした。

一時間、120バーツと安い。

 

私に着いた、おばさんは、痩せていて、少し顔色が悪い。

結果、あまり、芳しくない出来上がりだった。

マッサージ師の体調が、こちらに、移る。

これが、オイルマッサージならば、てきめんに、不調になる。

 

終わると、すでに、暗くなっていた。

そこから、先に進む道を抜けて、また、国境の道に出た。

一回り、回ったのである。

 

ホテルに戻る前に、食事をする。

屋台が出ていたので、屋台で、麺類を食べた。

そして、面白そうな、揚げ物を買った。一つ、7バーツである。部屋で、それを食べると、中に餡が入った、丸いドーナッのようなものだった。

 

早々と、ベッドに着いて寝た。

明日が、どのようになるのか、解らない。

兎に角、慰霊をすることだけは、確実である。

一度目の時、丁度一年前は、ミャンマーに入り、ついに、慰霊が出来なかったのである。