翌朝、10月30日である。
ホテルの、バイキングの朝食を食べた。
思う存分食べた。
そして、水を買いに、ホテルを出た。
ホテルの前に、タクシーが止まり、勧誘される。
私は、バスターミナルまでの、料金を尋ねた。120バーツである。
10時に、乗りたいと言うと、オッケーと言うので、そのタクシーに乗ることにした。
部屋に戻り、スタッフの野中に、10時出発と言う。
野中は、ようやく起きて、食事に出た。
いつも、夜行性なので、朝は苦手である。つまり、低血圧なのである。
子供の頃、実に苦悩したという。
子供の低血圧は、理解されない。
いつも、学校に遅刻したらしい。可愛そうに、である。
実は、私も、低血圧であるが、行動がキビキビしている。
つまり、生き急ぐのである。
これは、小学四年生からのことである。
人が死ぬものであることに、気づいた時期である。
さて、10時になり、荷物を持って、チェックアウトして、ホテル前を見ると、タクシーが、ホテル前に準備していた。
運転手が言う。どこまで行くのか。
チェンライ。
チェンライなら、2000バーツで行くよ。
いや、チェンライの先の、メーサイまで行く予定だ。
それなら、2500バーツで行く。
いや、バスの方が、腰にいいから、バスで行く。
バスなら、六時間かかる。これなら、三時間で、行く。
要するに、タクシー運転手は、バスより、タクシーの方がいいと言うのである。
私が、渋ると、メーサイまで、2000バーツで行くと言う。
約、6000円と少しである。
バスなら、二人で、600バーツである。約、2000円。
運転手は、兎に角、時間が半分だと、交渉する。
さて、どうするか。
タクシーだと、バスと違い、時々、止まったり、好きなように出来る。
その通り、止まったり、観光も出来た。
運転手は、懸命に売り込む、更に、譲らない雰囲気なので、私は、よし、オッケーと言った。
すると、運転手は、ヤッターという感じで、ハンドルを切った。
4000円の、差である。
確かに、タクシーに乗った成果は、あったと思う。
バスならば、見ない所も、見た。
途中で、止まり、食事もした。
ケチるという、旅もあるが、時々、ケチらないときも必要である。
絞りたてジュースを買ったり、茹でた、とうぎひを買って食べた。
そして、私たちは、テレサテンの、演歌を聴き続けたのである。
運転手が、テレサテンの歌、日本の歌が大好きだという。
テレサテンが、持ち歌以外の、多くの日本の歌、童謡もあるが、それらを歌ったものを、私は、初めて聴いた。
日本語も、中国語も、英語の歌も、実に巧い。
日本の歌を、中国語で歌うものもあった。
気づいた時は、私も、一緒に歌っているという、有様。
ところで、運転手は、片言の日本語を話した。
その訳は、六年間、新宿歌舞伎町で、タイ料理の店で働いていた経験があるのだ。三ヶ月のビザで、六年である。
二十年ほど前のことである。
チェンライに近づくこと、あと14キロの地点に、タイのアーティストである、チャルーンチャイ・コーシピパットがデザインした、寺院がある。
運転手は、私たちを、そこに連れた。
ワット・ロン・クンという、寺院である。
寺院は、1997年から建設が始まり、今も、続行している。
本堂では、彼の描いた、仏画が、本尊となっている。
実に、白尽くめで、不思議な寺である。
観光客は、多かった。
特に欧米人である。
寺院全体が、芸術化している。
宗教、仏教というものを、使い、芸術活動をするという。それもまた、芸術である。芸術は、宗教を超える。
宗教は、一つの芸術活動ともいえる。ただし、芸術の方は、余計な教義が無い。
運転手は、私たちが、写真を撮らないのが、不思議そうだった。
彼は、私たちの目的を、知らない。
私たちが、写真を撮るのは、別のことで、なのである。
運転手と一緒に、タイのラーメンを食べた。
日本のラーメンと違い、半分ほどの量で、腹にもたれない。少し、物足りないのがいい。
チェンライを抜けて、メーサイへ向かう。
タクシーは、飛ばした。速度の規制が無い。
どんどんと、追越をかける。
ようやく、テレサテンも終わり、ただの音楽になった。
メーサイに向かう時、私は、うとうとしていた。
運転手は、六時間のところ、三時間で、着くといったが、三時間以上になっていた。
途中の立ち寄りを入れて、五時間ほどになった。
国境の一本道に入り、ホッとした。
ホテルは、どこかと、訊かれて、まだ決めていないが、国境の近くだと言う。すると、オッケーと言い、新しいホテルね、と言う。
新しいホテル。
そんなの知らない。
だが、私は、そうそうと、答えた。
その新しいというホテルに到着した。
値段を訊いて、高ければ、別のホテルにしょうと、思った。
ホテルの駐車場に車を入れる。
ボーイが来て、荷物を運ぶ。
運転手とは、そこで、さよならである。
2000バーツを支払った。
フロントで、料金を尋ねると、800バーツである。朝食付き。
疲れたせいもあり、ここに決めた。
メーサイでは、高級ホテルに入ることになった。
部屋に荷物を入れて、しばし、休む。
大きな部屋に、ベッドが二つあり、リラックス出来た。
ただし、この程度の料金のホテルは、これが最後である。
次は、ゲストハウスで、350バーツ、そして、チェンマイのゲストハウスに似たホテルは、400バーツである。
夕暮れが迫る。
少し明るい内に、偵察した方がいいということになって、私たちは、町に出た。出たといっても、国境の辺りである。
国境の橋の下を歩いた。
商店街である。
橋の下の、川を見た。
明日の、慰霊の場所を決める。
タイ側で、慰霊の儀を執り行い、国境の橋の上で、神呼びをして、霊位を御呼びし、依り代に迎えて、霊位をタイ側に送るのである。
国境を入れないという、霊位の想念を取り除くのである。
タイ側に連れて、そこから、解放されたと、感じた霊位を、故郷にお送りする。ただ、それだけ。
慰霊の場所を見て、国境の橋を、見上げると、子供たちがいた。
手を振り、声を掛ける。
すると、何と、子供たちが、橋を降りるのである。
身軽に、ヒョイと、飛び降りる。
しかし、誰も、何も言わない。警備員も、来ない。
明日、服を持ってここに来るから、皆を呼んでと言う。
英語は、通じない。野中が、タイ語で、言うと、頷いた。
皆、初めて見る顔である。
一番背の高い子に、年を尋くと、15歳と言う。
彼は、孤児だった。
どこに寝ているのと、尋くと、コンビニの前だという。
コンビニということは、タイ側である。
ミャンマーには、コンビニは無い。
国境の前にある、コンビニが、彼の寝床である。
後で、そこが、最も安全な場所だと、気づく。
物乞いたちも、コンビニの前にいて、過ごしていた。
夜の間、最も明るい場所なのである。
彼らと別れて、橋の下を通り、歩くと、マッサージの店があった。
そこで、フットマッサージを受けることにした。
一時間、120バーツと安い。
私に着いた、おばさんは、痩せていて、少し顔色が悪い。
結果、あまり、芳しくない出来上がりだった。
マッサージ師の体調が、こちらに、移る。
これが、オイルマッサージならば、てきめんに、不調になる。
終わると、すでに、暗くなっていた。
そこから、先に進む道を抜けて、また、国境の道に出た。
一回り、回ったのである。
ホテルに戻る前に、食事をする。
屋台が出ていたので、屋台で、麺類を食べた。
そして、面白そうな、揚げ物を買った。一つ、7バーツである。部屋で、それを食べると、中に餡が入った、丸いドーナッのようなものだった。
早々と、ベッドに着いて寝た。
明日が、どのようになるのか、解らない。
兎に角、慰霊をすることだけは、確実である。
一度目の時、丁度一年前は、ミャンマーに入り、ついに、慰霊が出来なかったのである。
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