ミャンマーの、イミグレーションを通り、パスポートを略式通行証と交換する。
そして、橋に出た。
子供たちの姿を探すが、見当たらない。
タイの時間では、まだ、11時になっていないと、しばし、橋の上で、佇む。
その間に、色々と声を掛けられる。
荷物を持つと言ってくる、青年もいた。それで、幾ばくかの、金銭を得るのである。
二つのバッグを、持ってもらうこともない。
橋の上から、タイ側の下を見ると、昨日の子供たちが、三人、川で泳いでいる。
流れの速い川で、泳ぐという暴挙であるが、楽しそうだ。
私たちは、もう、橋から抜けて、橋の下に出ようと思った。
タイ側での、イミグレーションも、スムーズである。
出て来た、門を逆に戻り、橋の下に出た。
子供たちが、私たちに気づいて、川から、上がる。
持って来たよと、声を掛ける。
三人が、集まった。
そこで、バッグを開いて、衣服を見せる。
一人一人、サイズを確認する。
その内に、人数が増えてきた。
更に、橋の上からも、声が掛かる。
ストリートチルドレンから、成長した、少年たちである。
矢張り、国境の橋を拠点にして、生きているのである。
今回は、女の子を、一人も見なかった。
前回は、幼女一人がいた。
少女は、すぐに誰かに連れて行かれるのである。
少女は、女になる。
そして、金になるのである。
児童買春の、恰好の餌食である。
孤児であるから、誰も咎めない。
さてさて、どんどんと、衣服が無くなる。
残ったものは、女の子用のものである。
ついに、大きなバッグも欲しいと言われて、それも、上げた。
私たちの、すぐ傍で、タイの軍兵が、機関銃を背負って、じっと見ている。
最後に、昨日、ズボンが欲しいと言った、二人の男の子のものが無い。
私は、スタッフに、二人のズボンを、買って上げると、言わせた。
着いて来なさい。
二人の男の子が、私に従う。と、少しして、振り返ると、二人が四人に、増えていた。
あの、15歳の孤児の子と、母子家庭の子と、後の二人も、仲間なのであろう。四人が、打ち解けている。
彼らは、自分たちの物は、共有するという、道徳を持っている。
自分の物は、人の物であり、人の物は、自分の物である。それで、何とか、生きられるのである。
最初の市場に着いて、一番小さな、母子家庭の子に、ズボンを買った。最初から、半ズボンが欲しいと言っていた。
190バーツである。
そこの、おばさんが、その子に、何か話しかけている。
スタッフによれば、どうして、この良い人と、会ったのという質問である。更に、どうして、この人は、あなたに、物を買ってくれるの、である。
国境地帯は、色々な人が集う。
大半は、悪い人である。
良い人という言い方に、特徴があったので、スタッフも、意味が解ったという。
そして、おばさんは、その子に、学校に行かなければ駄目だよと、言ったらしい。
つまり、彼らは、学校に行っていないのだ。
また、学校に行けるお金が無い。
孤児の子は、自分の気に入った物が、無いと言う。そして、もう一つの市場に行くという。
そこで、時計を見た。
もう、時間が無い。これから、ゴールデントライアルグルに行く予定である。
早くしないと、チェンセーン行きの車が無いということになる。
車道の真ん中で、五人が、佇んだ。
私は、もう、時間が無いと言う。
彼らは、車で、5分のところにある、市場に行きたいと言う。
それでは、しょうがないと、私は、15歳の男の子に、240バーツを出した。
それは、車代と、ズボンを買うお金である。
すると、彼は、もう二人の分が、足りないと言う。
私は、他の二人のことを、考えていなかった。
さて、それではと、もう、200バーツ出した。
すると、15歳の子が、これでは足りないと言ったらしい。スタッフが聞いた。すると、一番小さな子が、それで、十分買えるだろうと、15歳の子を、牽制したという。
実は、一番小さな子の、ズボンの値段が、符丁より安くなっていた。地元の人であれば、もっと、安く買えるのかもしれないのである。
まして、見れば解る通り、街の中で、一番貧しい子供たちである。
私は、彼らの言葉が解らないゆえに、それじゃと、ソンテウ乗り場に、向かった。
すると、子供たちが、スタッフに、名前と、電話番号を聞いている。
スタッフの野中は、メモ用紙に、私の名と、自分の名、そして、タイでの、電話番号を書いて渡した。
私は、青色ソンテウ乗り場に、急ぎ足で向かった。
とうに、12時が過ぎて一時近くになる。
乗り場に着くと、一人の女性が、出発は、一時半ですと言う。
その女性が、運転手だとは、思わなかった。後で、それに気づく。
少し時間がある。
汗だくだったことを思い出し、水以外の飲み物を買った。
確か、ヤクルトに似たようなものだったと思う。
食欲は無かった。
あまりに、疲れると、食欲が無くなる。
タバコを、二本吸った。
タイでは、禁煙が全域に渡って行われて、灰皿も無い。
外でのみ吸うことが出来るというものだ。
時に、道路に、吸殻が落ちていることはあるが、それは、実に少ない。
また、罰金を科せられることもある。
私は、一本一本を、ゴミ袋に入れた。
衣服支援を終えたので、荷物が少なく、それがまた、安堵感を与えた。
後は、ゴールデントライアングルの慰霊である。
私たちの他に、地元の二人のおばさんが、乗り込んできた。
そして、出発である。
途中でも、また、おばさんが乗り込んできた。
メーサイからは、30程度で、到着する予定だったが、途中下車や、また、乗り込む人がいて、一時間ほどかかって、到着した。
その中に、母と娘と、娘の子である、女の子が乗り込んできた。
そこで、私は、丁度、サイズが合う女の子用の衣服があることを、思い出し、それを取り出して、必要でかと、スタッフに言わせた。
それは、冬物である。
おばあさんが、これから寒くなりますから、丁度良かったと言う。
そこで、縫ぐるみと、もう一つ、上着を差し上げた。
とても、喜んでくれた。
私は、日本人ですと言うと、着物を、指差して、キモノと言う。
イープンと、タイ語で、日本人と言う。
途中で降りてゆく時に、何度も、コプクンカーとお礼を頂いた。そして、合掌して、私たちを見送った。
こういう、差し上げ方もある。
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