天山旅日記
ベトムへ
平成20
10月
 

第21話

簡単に、日本と、ベトナムの関係を、俯瞰する。

 

1992年のODA再開がなされてから、十数年間に渡る、日本のODAによる、工事の全容には、凄いものがある。

 

ハノイと、ハイフォンを結ぶ、国道の整備、橋梁の架設、多くの国道の整備がされた。

南部と、北部を分ける、ダナンと、フエの中間にある、ハイヴァン峠のトンネル工事によって、90分もかかった、道が、20分で、通過するようになった。

 

ハノイのノイバイ空港の現代化、ホーチミンのタンソニャット国際空港の新設も、日本のODAである。

 

更に、多くの湾岸施設の改修や、下水道の工事、僻地の、小学校建設、などなど、甚だしいほどの、協力である。

 

2006年には、ズン首相が、来日し、ハノイと、ホーチミンを結ぶ南北高速鉄道と、南北縦貫高速道路、また、ITを中心とした、ホアラック・ハイテクパークの建設を、主要な、三つの、ODA案件として、日本政府に要請した。

 

兎に角、日本が、ベトナムに、大変な支援をしているということ、である。

これを、両国の国民が、知るべきである。

 

共に、日本企業の進出である。

トヨタ、ホンダ、キャノンなど、日本を代表する多国籍企業の多くが、ベトナムに工場を持つ。

中小企業の数も多くなり、開発中を含めて、150以上あると、いわれる。

 

ベトナム政府は、2010年までに、一人当たりの、GDPを、1100ドル程度にすることを、目標としている。

 

ベトナムが、市場として、次第に成長していることも、重要な要素である。

ホーチミンには、中間層といえる、階層も、出てきている。

 

二年前の、06年、日本からの、直接投資は、許可ベースで、約14億ドルと、過去最高になった。

 

中でも、IT産業である。

データ処理、ソフト開発などを、下請けに出すというものが、急増である。

 

ベトナムに出掛ける、日本人観光客の数は、駐ホーチミン日本総領事館によれば、昨年の、07年は、年間、41万8000人になったという。

 

更に、私が注目したのは、高齢者の、長期滞在である。

老後の生活を、ベトナムで、過ごすという、高齢者が増えているといわれる。

 

ベトナムでは、相互扶助の精神が、残り、温かい人情がある。

そして、年長者に対する、尊敬である。

つまり、ベトナム人の、中に、分け入ってゆくと、本当のベトナム人の気質が、現れるということである。

 

笑わないベトナム人は、実は、深い付き合いで、人情味溢れる付き合いに変容してゆくのである。

 

それが、今回の私の体験した、成果でもある。

それが、縫ぐるみが、きっかけになったという・・・

 

そして、衣服の支援である。

まさか、ホーチミン市内で、差し上げることになるとは、予想していなかったのである。

 

車をチャーターして、ホーチミンから出る計画だった。

 

これは、個人活動であるから、本当に、ささやかな行為である。

大量の衣類を持っては、行けないが、個人レベルでの、付き合いが出来る。そして、本当のベトナム人の持つ、人情に触れられる。

 

これからの、抱負を言えば、ホーチミンにて、ベトナムの人との付き合いを、深めて、ベトナム中部の、農村、そして、少数部族の人々に、支援したいと、思う。

 

日本のボラティア団体、個人的活動と、多くの日本人が、ベトナムにて、奉仕活動をしている。

それは、また、目覚しいものがある。

 

国際社会の、グローバル化というものを、しっかりと、理解していると、国境を超える。

市民レベルでは、国境を超えているのである。

 

うまく行けば、市民レベルで、平和を築くことが、出来るはずである。

誇大妄想の、全体主義指導者が、現れなければ。

 

一番、最初に、提案したことであるが、何故、日本人が、他国で、ボランティア活動をするのか。

日本でも、貧しい人、助けを必要としている人がいる。

当然の話である。

 

しかし、グローバル化を、理解すれば、国境は、関係ない。

ベトナムの若者が、日本の高齢者介護に、出て来ることもある。

 

思考も、グローバル化するべきなのである。

 

国内で、ボランティアする人も、海外で、ボランティアする人も、その、性格と、好みである。

それを、誰も裁けない。

ましてや、何もしない、出来ない者が、それを、批判し、更に、非難することなど、出来ない。

 

やりたい場所で、やれることを、する。

世界は、一つであることを、その行為に、託す。

素晴らしいことである。

 

それが、一つの主義や、主張、更に、教義に基づくものではなく、知性と感性と、理性によって、行う。

実に、新しい世紀の、行動である。

 

人類を救うために、云々という、お説に、惑わされないことである。

 

特に、日本人の行動は、宗教の布教でもなく、主義の公布でもない。

純粋に、人間としての、行動である。

純粋な人間の行動というのは、これでなければ、いけないという、観念を作らない。

 

柔軟に対処する。

臨機応変な対応が出来る。

 

新興宗教の、言い分がある。

本当の救いは、正しい教えによって、人を導くことであると。

それは、物資支援よりも、大切なことであると。

精神の救い、心の救いのみが、正しいというのである。

 

私は言う。

勝手な、精神であり、勝手な心というものを、作り上げて、それを、救うという、誇大妄想は、救いようがない。

 

大昔に、日本に仏教を伝えた人々がいる。

命懸けで、海を渡った。それは、時代性である。

その時代に必要とされた。

 

大昔の、観念から抜け出ない者が、教えを説くのである。

 

仏教の国に、キリスト教を布教するという、お馬鹿な真似は、止めるがいい。

更に、日本の新興宗教の輩、多数。

教線を広げることが、組織の、発展を促す。商売ではないのである。

それぞれの、土地に、合ったもの、伝統と、伝承がある。

それを、破壊することなく、知性と、理性に従い、行為行動すること。

 

それ以下に、新しい時代、新しい世紀に、生きるべき道は無い。

 

人類を救うために、という、言葉は、戯言である。

一人も、救えない者が、何をかいわんやである。

 

私は、一人の人間も、救うことが出来ないという、真実に立って、行為する。

 

真理の教えというものは、無い。

あれば、妄想である。

それを、信じると、ほぼ、思考が停止する。

別の人の、人生となる。

書き足りないが、終わることにする。