テラの会

フィリピン 戦没者追悼慰霊

平成21年1月15日


 フィリピンは太平洋戦争の戦場となりました。

 戦争犠牲者は111万人にのぼります。

 日本もまた50万人の戦没者を遺しました。

 フィリピンは米国といっしょに日本と戦いました。

 残虐行為も各地で行われたといいます。

 マニラのサンチャゴ要塞では、多くのフィリピン人が、命をおとしました。

 その場所で追悼慰霊を行いました。

※マニラ大聖堂の表門。たくさんの人が礼拝に来ていた。

※サンチャゴ要塞は観光地になっていた。土日にはライブ演奏もあるという。
※フィリピンの国民的英雄、ホセ・リサールが処刑されるまでの最後の時を過ごした場所でもある。
※ずらりと砲座がならんでいる。スペイン統治時代からある要塞。
※警備員の青年と。ショットガンはもちろんほんもの。私たちをさいごまでみまもっていた。
 要塞の地下牢では、フィリピン人が水ぜめにあって亡くなりました。

 もともと、スペイン統治時代は、囚人を閉じ込めておく、牢獄だったそうです。

 太平洋戦争の犠牲者も多いですが、それより前に多くの人が無念の最後をとげたことでしょう。

 追悼をしている間に、闇に葬られた過去からの怨念、としかいいようのないものを感じました。

 


※対岸はスラムである。河はよどみ、濁っていた。
※地下牢に降りる階段が、ひとつだけあった。このときは、真っ暗で何も見えなかった。写真で見ると、ゴミだらけだ。ここでどれだけの人が命をおとしたのか。

 追悼慰霊をひとまず終え、御幣を河に投げこみました。

 すぐ下には遊歩道があり、御幣がその上におちました。

 水に流すまでが慰霊ととらえ、一度要塞を出て、遊歩道まで降りました。


 要塞を歩く観光客に手をふっていた家族です。遊歩道の一部に住んでいました。

 ちょうど支援物資を持っていたので、子供服を手渡すことができました。

※大人用の服もいくつかあったので、手渡した。通常慰霊と子供服支援はいちどには行わないが、こういうこともある。
※この人たちはどこから来たのか気になった。この周辺に寝ている人がたくさんいた。
 木村天山の向こうに見えるのが、要塞です。

 路上生活者の女性たちが、あとを追ってきました。

 しかしすでに支援物資はなく、またの機会にと諦めてもらいました。


 もう一度、祓い清めを行います。

 要塞の上での慰霊は、地下牢で亡くなった方たちの上からやっていたことになります。

 いちど、下に降りて、彼らと同じ目線になる必要があったのかもしれません。

 こんどは無事、御幣を河に流すことが出来ました。

 マニラで行った子供服支援の様子もご覧下さい。

■子供服支援 昼の部
■夜の部

※タイなどでは、川の上を流れていった御幣だが、フィリピンでは様子が違った。水面にはりつくように微動だにせず、そのまま、下にひっぱりこまれるように沈んでいった。 ※その場にいた男性も、その様子を指さし、おどろいていた。御幣は、それこそ映画のワンシーンのように、ゆっくりと姿を消したのである・・・・・・

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