焼肉屋は、日本人経営の店であった。それは、店員が、日本語を話すから、解った。
二人で食べて、1500ペソ程度で、3000円であるから、大変高い値段である。勿論、日本では、比べ物にならない程、安い。
私が、安いとか、高いというのは、現地の通常の価格に対してである。
200円程度の食事が、普通ならば、高いのである。
その日は、アルコールは、飲まなかった。
疲れると、てきめんに、アルコールを欲しない。
その店を、出て、少し歩き、ショーのあるレディボーイの店に入った。
コータが、あらかじめ、調べていたのだ。
日本のニューハーフショーは、フィリピンが発祥である。
それを、初めて、日本に紹介したのは、札幌の、ある店だった。
当時は、画期的だった。
男が、女より美しくあるという、触れ込みであった。
私も、その店で、初めて、ニューハーフショーを見た。
もう、25年ほど前である。
だが、フィリピンでは、廃れた。
今も、その手の店は、あるが、あまり、客が入らない。
その店も、老舗であった。しかし、最初は、私達二人だけが、客だった。
そのうちに、二組の客が入って来た。日本人である。
あまり、煩いので、私達は、ショーの前に店を出た。
音も、会話も、煩いのである。それに、英語だから、疲れる。はりきっているのは、解るが、そのテンションについてゆけないのである。
二人の、レディボーイに、ご馳走して、会計は、3000ペソを超えた。6000円である。大変な出費だった。
それで、明日も来て、である。
日本人は、金持ちであると、見ている。
それ程の、出費をして、得るものは、無かった。
大半は、お金がなく、手術をしていない、男の体のレディーである。
それから、ぶらぶらと歩いて、通りの角の店の前の椅子に座った。
そこが、ゲイの店であることが、解ったのは、日本語が出来るフィリピン人に逢ったからである。
日本に、働きに来ていたという、二人のフィリピン人男性に逢った。
更に、その彼氏は、オーストラリア人であった。そして、その友人の、マレーシア人も、日本で働いていたことがあるという。
四人でいたテーブルの横に、座ったのだ。
マレーシア人から、貴重な話を聞いた。
彼の、家の近くに、日本兵の墓があるという。しかし、今は、誰も訪れる人がなく、墓は、荒れているという。
もし、私達が、来るなら、案内するというものだった。
コータが、英語で、私達の活動を話したことで、その話になった。
確かに、マレーシアに慰霊に行く人は、聞いたことがない。
これは、貴重な情報であるから、コータに、彼の連絡先を聞いて貰った。
彼らは、大変親切だった。何か、必要ならば、協力しますと言う。
私は、一時間ほど、マッサージがしたいと言うと、近くにあるので、案内すると言う。
男のマッサージ師がいる店だというので、案内して貰うことにした。
コータをそこに置いて出掛けた。
タイのような、マッサージは無い。
オイルマッサージが、一時間で、サウナ、風呂付で、900ペソである。高い。しかし、折角案内してくれたと、受けることにした。
その時、何気なく、時計を見た。
その時計を、暫く見つめていた。
10:30であった。
もうこんな時間なのかと、思った。
日本時間では、11:30である。丁度、妹が亡くなった時間である。
それを、知らずに、私はマッサージを受けていた。
その、技には、納得したが、後が悪い。
マッサージの男は、色気で、挑発してきた。
終わる頃だったので、次の時にということで、断り、早々に、店を出た。
コータが待つ店に行くと、皆で楽しそうに会話していた。
私は、座らずに、そのまま、帰ることにした。
一人のフィリピン人の男は、電話番号まで、書いてくれ、何かあったら、連絡をと言う。
だが、一度も、連絡しなかった。
マニラの風に、慣れていないせいか、疲れた。
そのまま、ゲストハウスに戻り、別々の部屋で、寝た。
道で少年から買った、花をコップに生けた。20ペソだった。
マニラでは、少年少女も働いている。
お金がなくて、学校に行かない子もいる。
義務教育は、お金が掛からないが、文具などを買えないのである。
朝も昼も、夜も働く子がいる。
幼稚園児のような子も、花売りをしている。家族総出で、花を売り生活をしているのだ。
食って、寝るために、多くの人が、苦労している。当たり前のことだが、それが、目に見えて解るのが、マニラである。
これは、政治の問題でもある。
追々書くことにする。
フィリピンは、乾期である。
二月に、本格的な夏になる。
ところが、私には、少し涼しく感じられた。
夜は、涼しいというより、少し寒さを感じる。
部屋で、窓を開けていたが、寒さを感じた。
昼間も、とても暑いという感じは無い。
ただ、涼しいが、汗をかくのである。
不思議な暑さだった。
しかし、日に日に、暑さが増した。
帰国する頃は、昼間は、特に暑いのである。夜も、暑い。次第に、真夏に向かっていた。
ゲストハウスは、シーツのようなものを掛けて寝る。
毛布は、無い。
夜中は、少し寒い。
二日目の、夜である。
三日目の朝、どうしても、日本に電話をしたいと思った。
家族は、フィリピンに行くことを、凄く心配していたので、安心させたいと思った。勿論、妹の状態も、聞きたかった。
ゲストハウスの電話を借りて、実家に電話をした。
母が出た。
私だと、解ると、妹の名を言い、逝ってしまったと泣いた。
昨日の夜、11:30だと言った。
私に連絡したが、電話が繋がらなかったと言う。
タイの携帯電話で、フィリピンでは、繋がらないのだ。
兎に角、母を慰めて、また電話すると言い、電話を切った。
覚悟していたことである。
フィリピンに出掛ける前に、冬の北海道の実家に、14年振りに、戻った。
妹の手当てをするためである。
そして、最後の別れであった。
部屋に戻り、暫く、声を上げて、泣いた。
父のときは、納得し、安心したが、矢張り、妹は、若い。
母よりも、私よりも、先に逝った。
悲しい。
ただ、悲しい。
人が死ぬのは、悲しい。
理屈も何も無い。
落ち着いてから、歌を読み始めた。
妹との、思い出が、宝物になった。
悲しくて 切なくてなお 妹を 泣きながら呼ぶ 我はあはれか
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