木村天山旅日記

 フィリピンへ
 
平成21年
 1月
 

 第5話

スペイン時代の、イントラムロスについて説明するために、スペインのやったことを、俯瞰してみる。

 

ここで、非常に問題がある。

日本の歴史という時、日本という国は、北海道から、沖縄までの、範囲を言う。

フィリピンという国の歴史を、語る時、果たして、いつの時代から、フィリピンという国を、語ることが、出来るのかということである。

 

フィリピンという、領域で、語るとしたら、それは、スペインが、マニラに根拠を置き、ルソン島、ビサヤ諸島、ミンダナオ島北部海岸で、植民地化と、カトリック化がされた、キリスト教社会が成立してからのことである。

 

それに、山地非キリスト教、南部のイスラム社会が含まれるようになるのは、何と、20世紀に入って、アメリカの支配が本格化してからである。

 

ミンダナオ島や、スールー諸島は、早くから、インド文化を取り入れて、王国を形成していた。

マレー海域世界西部の、マレー半島、スマトラ島、ジャワ島などに影響を受けていたのである。

 

東部は、長く、首長制社会が続いた。

そして、15世紀の半ばに、本格化した、商業時代に乗って、イスラムが伝来し、ヨーロッパ勢力によって、キリスト教の刺激を受けて、17世紀に、イスラム王国が、誕生した地域である。

 

商業時代に関することを、書き続けてゆけば、長い物語になるので、省略する。

 

今に至る問題の、根本は、スペイン時代にあると、考えるので、スペインの植民地政策を、見ることにする。

 

スペインの、アジア進出は、コロンブスの西方航海による、大陸発見と、マゼランの世界周航途上での、太平洋発見を経て、具体化したものである。

 

1494年、スペインと、ポルトガルは、トルデシーリャス条約を結んだ。

それは、ブラジルをはぶく、新大陸をスペインのものとし、1529年の、サラゴサ条約は、フィリピン諸島をスペインの領土とするものだった。

それにより、スペインの勢力範囲は、西方航海途上の、新大陸、インディアス、太平洋、フィリピン諸島となったのである。

 

スペインが、フィリピンをアジア進出の拠点として維持するには、インディアス、つまり、メキシコと結びつけることが必要だった。

 

1565年に、ミゲル・ロペス・デ・レガスピが、初代総督になって、セブに拠点を置いた。

そして、フィリピンと、メキシコを結びつけるために、アグスチヌ会の修道士であり、航海士ウルダネタらに、太平洋横断帰路発見の、任務を与えた。

その年のうちに、一行は、メキシコに帰着し、19世紀に至る、スペインの、支配が開始されたのである。

 

その後、レガスピ総督は、地域間交易の中心、マニラを攻撃して、1571年に、マニラ市を設置する。

植民地首都としたのである。

 

これ以降、約250年間、マニラと、メキシコを結ぶ、ガレオン貿易が、フィリピンの生命線となった。

 

マニラ・ガレオン貿易は、中国の、絹、生糸、陶磁器などのアジア物産を、メキシコへ輸出し、新大陸の銀を輸入して、関税収入のみならず、赤字財政補填金や、官僚、兵士などの、輸送、本国の指令の受領にも不可欠だった。

 

植民地フィリピンの、最高権力者は、軍事、行政、そして1861年まで、司法権を握っていた総督だった。

 

しかし、ここが、ポイントである。

フィリピン統治の特色は、世俗の権威による、支配が、カトリック教会だったことである。

 

16世紀初頭以来、インディアス統治の正当性の論争が、起こった時、スペイン王により、新発見の土地に、福音伝道をという使命が、支配の正統的原理とされた。

被征服民のカトリシズム受容は、スペイン国王の権威に服することを意味するものとなった。

 

それゆえ、レガピス総督は、セブに根拠を置くと、すぐに、アグスチヌ会士を通して、現地の、首長と、その配下に、洗礼を施したのである。

 

特に、産物の無い、また防衛に軍事費がかかる、フィリピンの支配は、ただ、キリスト教世界の建設と、住民の改宗ということが、テーマとなったということが、私は、大きな歴史のポイントであると、理解する。

 

諸島各地への、布教活動は、ローマではなく、各派修道会が、担った。

 

教区教会、広場、町役場を中心に、町が、作られ、修道会士は、教区司祭として、住民の教化に当たり、各地において、スペイン植民地支配を貫徹すべく、民を監視した。

 

カトリック化された住民を、インディオと呼ばれたが、ダトゥやその一族は、町長や、他の役職を与えられた。

植民地権力と、住民の、仲介役で、徴税や、労役の徴発を負った。

 

カトリックは、植民地化をすすめる上で、多大な貢献をした。

住民支配の、最も良き手段だった。

 

勿論、地場の信仰形態もあった。

それらの、宗教者たちは、反発したが、カトリック信仰のゆえに、住民達も、複雑な形相を帯びた。

 

確実に、カトリックの教えが、浸透していったという事実が、実に、不思議である。

 

更には、スペイン支配に反対しても、独自に、カトリックの信仰を掲げて、自治を行うという、島まで、現れた。

 

18世紀初頭以来、各諸島に広がった、パション、つまり、キリストの受難の生涯を描いた長編叙事詩の、詠唱が、各自の解釈を主体的に行う契機となり、カトリックが、植民地支配を推し進めたが、また、それが、抵抗する論理を与えたとも、言えるのであり、実に、複雑な形相である。

 

19世紀から、20世紀初頭の、フィリピン革命の核となった、秘密結社、カティプーナンの思想も、パションの論理を元に、作られた。

 

マニラに、絞れば、タガログ地方では、所有地の拡大に努める修道会に対して、農民達が、立ち上がるという、事態も起きた。

 

それから、フィリピン革命に動きはじめることと、信仰と絡まってくるのである。

 

一つ、面白いのは、1767年以降に、スペインの政策転換で、教区司祭が、インディオ、つまり、スペイン系、中国系の在俗司祭を登用するということになったという。

しかし、それも、インディアス各地の独立、本国の政治的混乱を背景に、スペイン人修道士が、教区司祭に、返り咲いたことから、更に、在俗司祭の権利擁護運動が起こったのである。

 

その先頭に立った、司祭三人が、処刑されるという事態になり、革命への布石となった。

 

ここまで、淡々として、歴史を俯瞰したが、スペインは、南米でも、カトリックの信仰により、支配を強化するという方法を取り、更に、一億人の命を奪うという、暴挙をなしている。

 

植民地支配と、信仰の問題は、切っても切れないのである。

 

宗教とは、何か、である。

 

日本が、キリシタンを禁止した訳も、ここにある。

 

キリスト教信仰を、許せば、結果は、植民地化されるという、時代性があったという、事実である。

 

よくよく、このことを、考えてみる必要がある。