木村天山旅日記

 フィリピンへ
 
平成21年
 1月
 

 第10話

それでは、日本占領時代は、どうだったのか。

 

その前に、フィリピンは、実は、日本に占領されることを、恐れていた、東南アジアの唯一の国であるということだ。

 

1935年に、米国主導で発足した自治植民地フィリピン・コモンウェルスは、46年に予定されていた、独立後の、国防に備えて、陸軍を発足させ、アメリカから、ダグラス・マッカーサを最高軍事顧問に迎えていた。

1937,38年と、マヌエル・ケソン大統領は、日本を訪れて、日本政府外相と会談し、日本からの不侵略の言葉を得ようとしている。

 

1931年の満州事変以降、大陸侵略を進め、宗主国アメリカと、対立を深める隣国と、どのように付き合うべきかを、模索していた。

日本政府は、それに対して、繰り返し、領土侵略の無いことを、強調した。

 

ところが、事実は、大軍をもって、全土を勝伯したから、驚いた。

 

これに対して、米軍と統合されたフィリピン陸軍は、日本軍と、激しく戦火を交えた。

しかし、42年5月に、降伏するのである。

各地で、米比軍のゲリラが活動したが、ケソン大統領は、ワシントンに、亡命した。

 

現地自活の、原則から、日本軍は、食料を現地で調達する。

アメリカとの、植民地経済関係を切断されたフィリピンを襲った、食料、物資不足に、拍車をかけて、日本軍は、日々の糧に不足する人々から、怨まれたのである。

 

やがて、米軍から補給を受けた米比軍ゲリラの、日本軍抵抗が、本格化すると、日本軍は、ゲリラ、民間人を問わず、討伐に打って出た。

日本軍による、残虐行為は、1943年、夏以降、バナイ島など各地で、起こる。

 

さて、このように書いたが、日本軍の行為の前に、必ず、残虐行為と、書かれることは、どういうことなのか。私も、それに倣って書いたが。

 

戦争であるから、そのすべてが、残虐行為である。

日本軍の行為については、いつも、残虐行為という、言葉がつくのである。

これには、作為がある。

 

私も、準じて、残虐行為と、書くが、実に、変だと思っている。

 

日本軍は、フィリピンの、戦前の自治政府を継承する、政治エリートとの、協調で、事態を乗り切ろうとした。

ホセ・P・ラウレルを大統領とする、共和国を独立させたのである。

 

それは、フィリピンを占領地としてではなく、日米の決戦場として、見ていたことが、挙げられる。

 

これが、フィリピンの悲劇だった。

 

戦争末期、日本軍は、各地で、全国的な抵抗に遭う。

日本と、米比軍との、烈しい戦闘は、全土を巻き込み、111万人にのぼる、戦争犠牲者を出した。

 

また、それにより、60億ドルにのぼる、物的損害を与えた。

それは、東南アジア最悪の状態だった。

 

日本による、占領と、戦争の悲惨な果てに、マッカーサーが、アイ・シャル・リターンとの、約束を守ったことで、圧制からの解放者として、受け入れられたのは、当然のことだった。

 

しかし、それはまた、戦後の、フィリピンに、長く制約を与えることになる。

 

スペイン統治時代から、この戦争を経て、更にアメリカの影響下にありつつ、国造りをしたフィリピンという国は、あまりに、翻弄され過ぎた、結果の果ての姿が、今も残る。

 

ただし、面白い事実がある。

 

日本占領時代に、戦前のフィリピン文化を、欧米一辺倒であると、刺激を与えて、東洋への回帰を訴えた日本の文化宣伝により、占領をチャンスと捉えて、独自の民族文化を探り、タガログ語などによる、民族語の作品を追求した、知識人、芸術家たちがいる。

 

だが、フィリピンの人には、日本という国が、裏切り者の、ユダに象徴される、イメージが、付きまとったことは、否めない。

 

占領初期、日本の軍民問わず、マニラにあった、欧米からの、豊富だった、物質在庫を軍票という、紙幣で、買い漁り、酒色に耽った日本人の姿は、今もなお、続いている。

 

フィリピンの人には、略奪する、日本人のイメージが、付きまとう。

 

只今も、フィリピン旅行に行く、日本男性の多くは、売春が目当てである。

それこそ、酒色に耽るために、マニラに出掛ける。

 

私も、多くの日本人男性を見た。

多くは、50代を中心に、遊びに来ていた。

 

まず、売春の実態である。

日本円にして、書く。

売春行為は、3000円程度からある。

 

私達が、昼食をするために、誘われた、店では、入ると、女が10名ほどいて、驚いた。

食事のための、テーブルが、二つである。

コータが、どう見ても、おかしいと言う。

 

店先の、料理を選び、食事をしたが、雰囲気が、食堂ではない。

物を運んでくる女の子の、笑顔が、実に、微妙である。

 

私が、女達に、マッサージと、声を掛けた。

すると、オッケー、マッサージ上手と、日本語で返ってきた。

幾ら

すると、後に居た、婆さんが、一人、4000円という。

 

エッ、4000円。そんな高いマッサージ・・・

 

コータが、小さい声で、売春だと、言う。

 

婆さんが、後から、あなたたちなら、3000円で、いいと、言った。

 

ホテル近くなので、よく、その前のおじさんに、声を掛けられたが、あやふやに返事をしていた。

 

そして、街中を歩けば、必ず、売春斡旋の、おじさんたちに、声を掛けられる。実に、しつこいのである。

日本人には、特にそうだということに、気づいた。

 

女、女、女と、声を掛ける。

タイでは、それに対して、アイライク・ボーイと言うと、引き下がったものだが、そんなことを言うと、男もあるよ、と言われ、男の斡旋もするという。更に、いらないと言うと、おかまも、あるよと、言われる。

 

ほとほと、参った。

 

ついに、顔見知りになった、おじさんに、つかまり、変な建物の、二階に連れられた。

昼間だったので、私は、興味もあり、着いて行った。

 

女が、20名以上いて、歓声を上げた。

マネージャーという、現地の男が、握手を求めてきた。

とりあえず、ビールですかと言うので、笑ってしまった。

 

昼間から、酒を飲む趣味は無い。

いらない、カラオケかというと、違うと言う。

女を見てくださいと、言う。

 

私は、すぐに立ち上がり、店を出た。

おじさんが、追っかけて来る。

そして、言う。

フィリピン料理、美味しい。こっちこっちと、店に、引っ張る。

 

つまり、おじさんは、客を見つけられず、腹ペコだった。

私は、おじさんに、ご飯をご馳走した。

コータも、同じような、経験をしたようだ。

 

食べ終えた、おじさんに、色々と、内容を尋ねた。

女は、七日間、一万円で、キープ出来るという。

 

そうして、男は、旅の間、女を確保するのである。

だが、同じ女で飽きる男は、毎日、女を買う。

一度、日本人の男が、三人の、売春婦を、ホテルに連れて入るのを、見た。

三人でも、一万円程度である。

 

さて、フィリピンでは、日本人の孤児たちが、今も生まれている。

説明しなくても、解るだろう。

 

戦争孤児も、日系人が多い。

その、日系の孤児たちは、二万人とも、三万人とも、言われる。

 

マニラ日本人会は、その、日系孤児たちの、学資援助を行う。

ただし、まだまだ、足りない。

 

ホテルフロントの、女の子の給料は、二万円。真っ当な、マッサージをしている者の、給料は、一万円程度。

勿論、それでは、暮らせない。

私達が、衣服支援をしていると、言うと、ホテルフロントの女の子は、姉には、子供が三人いる。服が欲しいと言った。

残念ながら、今回は、足りなくなり、差し上げられなかった。

 

上記の、おじさんは、田舎から出てきて、マニラで、呼び込みをしているが、田舎には、女の子一人、男の子二人、そして、妻と、女親がいると言う。

自分でさえ、食べのが、やっとである。仕送りなど出来ないのである。

 

このような、話を書けば、キリが無い。

 

売春に関しては、否定はしない。

成人が納得して、生活の糧を得るのである。暮らしを立てている者に、何を言えるか。

理想論は、フィリピンには、通用しない。

 

それは、貧しい国すべてに、言える。

 

戦後の日本も、売春により、外貨を稼いだ。

韓国も、中国も、同じである。

女の股が、生み出すものは、子供だけではない。

お金も、生み出すのである。

何も言うことは無い。