木村天山旅日記

 フィリピンへ
 
平成21年
 1月
 

 第12話

マニラの、エルミタ地区には、巨大デパート、ロビンソンという建物がある。

ほぼ、一丁角を占めている。

日本の、ダイエーと、高島屋、三越などを、合わせたような、デパートである。

 

その中に入ると、今までの、街の風景が、消える。

まさに、現代の都会にいるのである。

 

兎に角、中には、レストランが多く、食事をするのに、事欠かない。

世界中のメニューがある。

値段は、決して安くない。

街中の食堂より、倍以上はする。

 

スパーもあり、その値段を見て回ったが、みかんなど、道端で、売っている物の、二倍だった。矢張り、高いのである。

しかし、混雑振りは、甚だしい。

 

最も、お客が少なかった時間帯は、開店すぐである。

それから、昼に掛けて、どんどんと、入ってくる。

閉店まで、いつも、一杯である。

 

だが、一歩外へ出ると、別世界、現実の世界である。

 

実に、不思議な感じがした。

そして、ある意味、中に入って、ホッとすることもあった。

だが、それは、私の感性が、横浜という都会、日本という、街の有り様に、嵌っているからだろうと、思う。

 

見慣れた風景を、好むのは、当たり前である。

 

一度だけ、和食の店に入った。

メニューを見て、値段を見て、矢張り高いと思った。

普通のラーメンを注文したが、味が、味の素だったから、驚いた。

 

明らかに、手抜きである。

スープの出汁をとっていないのである。

単なる、調味料である。

そして、それでも通用するところが、また、何とも、言いえない。

 

四階まであり、その四階の、盲人のマッサージ店に入ったのだ。

一階と、四階には、多くレストランが入っていた。

アメリカンフーズの店が、大人気のようである。

食生活も、アメリカを真似ているのだろう。

 

日本軍の、敗退の後、アメリカ軍の再上陸による、日本軍からの、解放を経て、フィリピンは、1946年4月4日に、共和国として、独立した。

 

初代大統領マヌエル・ロハスは、われわれの友人であり、庇護者であったアメリカの善意に信頼を託し、わたしは忠誠を誓う、と、まで述べている。

 

太平洋戦争最大の激戦地だった、フィリピンが、戦禍からの、復興に向けて、アメリカに頼る以外になかったのだ。

 

独立後、フィリピンは、アメリカと、二つの重要な協定を、結んでいる。

総額6億2千万ドルの、復興支援を供与する協定。

植民地統治時代の、経済関係を事実上継続する、ベル貿易法にもとづく、米比通商協定である。

 

通商協定は、最初の八年間を、無関税とし、その後の、20年間で、段階的に無関税を回収する関係を、28年間にわたり、維持し、同時に、砂糖、ココナツなど、フィリピンの産物の、対米輸入割当制の規定である。

 

そして、アメリカは、米国民が、フィリピンの自然資源の開発、利用、公益事業の経営などに、参入できる、内国民待遇を、獲得した。

 

もう一つは、ルソン島の、中央部、スービックとクラークを中心にした、軍事基地の維持である。

 

当初は、99年間の使用権だったが、マルコス政権下の、1966年に、91年までの、25年間に、短縮された。

 

独立後も、アメリカとの関係維持を、つとめて、国家の根幹に関わる、分野で依存関係を保持したのである。

 

アメリカが、前後10年間で、日本を含めたアジアに対して、支出した援助額は、100億ドルであり、このうちの、22億5千万ドルが、フィリピンに向けられた。

 

大統領制、上下両院制議会、二大政党制も、アメリカ型である。

 

また、東南アジアに見られる、独立後の、支配層の入れ替えが無かったことも、特徴である。伝統的支配層に、変化が無かったというのが、今に至るフィリピンに有り様である。

 

つまり、フィリピンは、エリートと大衆という、区分けが、厳然としてある国なのである。

 

ただ、産業形態が多様化する中で、新たなビジネス・エリートに、のし上がる人も出たことは、確かである。

 

また、高等教育の、普及が新興勢力としての、中間層を育てたことも、否めない。

それらも、エリート社会に、連なるグループである。

 

自由主義思想と、親米反共ナショナリズム、それは、キリスト教徒で、英語を日常語とする、欧米の文化を崇め、伝統文化を、見下すという、アメリカ流民主主義を、手本とする、フィリピンのエリート層を、形作った。

 

問題は、支配層、エリート層の、特異な贅沢、対米依存が、繁栄を演じたが、その裏には、とてつもない、貧困という、大衆の姿がある。

 

60年代、農村地帯から、マニラをはじめとした都会への、人口流入が加速した。

そのため、都市部は、恒常的な失業者を生み出した。

その多くが、スラム・スクオッターとして、膨張したのである。

今、現在も、引き続いている問題である。

 

その結果、都市部では、労働運動、学生運動が広がる。

更に、反米ナショナリズムである。

60年代には、毛沢東主義を、掲げる共産主義勢力も、台頭した。

南部の、ミンダナオ島では、今も、少数派異教徒とされた、イスラム教徒たちが、自治権の拡大や、分離独立を掲げて、武装勢力として、活動している。

 

そこで、登場したのが、マルコス政権である。

多様化する国民の要求に対して、権力の一元化を図り、都市中間層を中心にした、国民の政治的覚醒、力による弾圧である。

 

そうして、経済が疲弊していった。

 

86年2月の、民衆蜂起で、マルコスが追放され、誕生した、アキノ政権下で、上院多数派が、米軍基地の存続協定を否決する。

アメリカと、切れて、その自縛を解き、新たに生まれでようとしたのである。

 

これを引き継いだのが、ラモス政権である。

経済の再建を掲げて、アジア回帰を掲げた。

 

そして、エストラーダ政権である。

だが、弾劾裁判という、未曾有の元、大統領の任を解かれた。

 

現在のアヨロ大統領は、2001年1月に、民衆の支持を得て、誕生した。

貧困の撲滅、汚職の追放、政治倫理の確立、治安の改善、反政府勢力との和平交渉を掲げる。

 

だが、政治家の、汚職は、凄まじいばかりである。

 

フィリピンに対する、ODAの取り扱いが、中止にされたことも、汚職の故である。

その新聞記事を、私は、マニラで、読んだ。

 

汚職大国であるとは、現職議員が吐いた言葉である。

 

エリートの象徴は、公務員である。

彼らは、たっぷりと、国家に保護されている。

そして、公務員になるためには、ツテが必要である。

簡単にはなれない。

能力主義ではないのだ。

 

フィリピンの問題は、まだまだ、根が深い。

私は、そのもっともたる問題は、フィリピンの自己統一性であると、思っている。

長い間の、植民地政策により、自らの、自己統一性を、築くことが、出来なかった、悲劇である。