木村天山旅日


 

  バリ島再考の旅
  
平成21年
  2月
 

 第8話

クタでの、支援は、昼と、夜とに、分けて行うことにした。

 

まず、慰霊に使用した、御幣を海に投げ入れるために、昼前に、ビーチに出て、人の少ない場所を探して、祈り、海に投げ入れた。

それから、ゆっくりと、ビーチ沿いを歩いて、衣服を差し上げる人を、探した。

 

女が、赤ん坊を抱いて座っていた。

その辺りで、暮らす人だと、すぐに解る。

その、赤ん坊に、合うサイズのものを、手渡した時、すでに、私の周囲を、人が取り囲んだ。一瞬のうちである。

 

どこから、見ていたのか、女達が集った。

私にも、子供がいる。

私にも、子供がいる。

 

一人一人に、男の子、女の子と、聞いている間に、バッグから、取り出す者もいて、騒然となった。更に、男も、来て、私にも、子供がいると、はじまった。

 

皆を、制止しつつ、衣服を取り出して上げたが、その間は、30秒ほどの感覚であった。

すべてが、無くなった。

呆然とした。

 

それを、周囲の人々も、見ていた。

その中に、ホテルの従業員がいることなど、知らない。後で、それが、解る。

 

そのまま、ホテルに戻った。

汗だくだった。

その一瞬が、体力を、相当奪った。

体力というものは、長時間動いたから、云々というものではない。

その瞬間の、勢いに、消耗するものである。

 

私は、ビーチ沿いを、ゆっくりと歩いて、そこで暮らす、子供達に、手渡すことを、イメージしていた。が、突然の、出来事に、やや混乱した。

 

ビーチで、働く人たちは、ジャワ人が多いと、聞いていた。

確かに、ジャワ人が多いだろうが、皆、物売りで、その日暮らしである。

ほとんど、子供達を、学校へやれない人たちである。

 

例えば、バリ人でマッサージをする者の、家は、三階建ての家で、豊かな暮らしをする人もいるという。

それは、例外中の例外である。

それをもって、すべてを判断出来るものではない。

 

ジャワ人でも、バリ人でも、私には、関係ない。

必要な人に差し上げるのである。

 

一瞬の風の中に身を置き、相当な体力を奪われて、部屋で、休んだ。

 

ビーチは、長い。

そこで、支援活動をするには、何倍もの、衣服が必要である。

そして、限界がある。

 

残りの半分は、夜、通りで暮らす人々に、差し上げる物で、それを、ビーチに持ってゆくことは、抑えた。

 

通りで、暮らす人は、場所を替えるので、その時でなければ、渡せない。

ホテルのレストランで食事をして、再び、部屋で、休んだ。

 

そして、夕闇が迫る頃、荷物を持って、出掛けた。

何度か見て、見当をつけていた。

 

まず、三人の子供といる、女の場所に行った。

上の女の子の、顔色が悪いのを心配していた。

その時は、上の女の子がいなかったが、乳飲み子と、小さな男の子に、それぞれ、サイズの合うものを、手渡した。

すると、赤ん坊を抱いた女が、現れた。

 

その赤ん坊にも、差し上げて、更に、女が、自分のシャツを示して、これ、一枚しかないと言う。

その時、大人物を、持っていなかった。

ネクスト・タイムと、私が言うと、納得した。

 

それから、通りをゆっくりと歩いて、必要とする人を探した。

今は、もう、具体的に思い出せない。

 

兎に角、半分以上を差し上げた。

その夜は、それで、終わりである。

 

帰国まで、明日一日となった。

 

私は、明日で、すべての衣類を、差し上げることにした。

帰国する日は、明後日になるが、飛行機は、日付が変わってから乗る。

要するに、七日間の、滞在費、10ドルを払っているので、日付が、変わる前に、出国手続きが必要なのである。

 

八日間以上になると、20ドルになる。

みみっちい、話であるが、この、ケチケチ精神がなければ、多くの国、地域に行けない。

すべては、自腹であるから、長く活動を続けるには、格安チケット、ゲストハウスに泊まり、現地の食堂で、食べて、贅沢は、マッサージをすること、のみである。

 

勿論、毎月、3000円を支援してくれる方、時々、5万円を支援してくれる方。衣服と一緒に、二千円、三千円と、入れてくれる方がいる。

だが、それで、旅費を賄うことは出来ない。

ほとんど、自腹である。

 

そして、これが、私の人生最後の活動であるから、それに、つまりお金の、やりくりは、当然のこと。

 

一度、コンサート活動で、すべてのお金を使い果たしたので、何も無くなった。

それから、やりくりしての、活動である。

実に、無謀なことである。

 

だから、野垂れ死ぬことが、希望なのである。

異国の地で、くたばれば、幸いである。

更に、希望を言えば、南の島の、浜辺で、息を引き取ることを、よしとする。

 

そのまま、海にでも流してくれれば、上々の人生、死に方である。

 

この人生で、欲しい物は、無いし、自分の遺骨に、囚われも無い。

死ねば、霊位として、自然に隠れるのみ。

 

昔の人は、草葉の陰から、見ていると、言った。

つまり、墓の草葉の陰であろう。

無くなるとは、思わなかった。

死んでも、その心が、残るものだと、思っていた。

勿論、死ねば、無に帰すると、考える人もいて、いい。

 

死んでしまえば、この世には、どうにも、こうにも、しょうがないのである。

ただし、浮遊すれば、別である。

浮遊して、その想念が、生前の姿を見せることがある。幽霊である。

つまり、幽体から、霊体が抜けていない、状態である。

 

それは、未練、捕らわれから、起こる。

 

真っ直ぐ行くとは、真っ直ぐ、行くべき所、時空に行くのである。

隣にいても、時空が違えば、永遠の隔たりがある。

これを、理解するには、直感でしかない。