木村天山旅日記

  ヤンゴンへ
  
平成21年3月 

 

第4話

ヤンゴン、二日目の朝、私は、早く目覚めた。

そして、色々と思案した。といっても、朝、寺には行かないことにし、社長に、タンブン、布施を渡して、行って貰おうと、思った。

 

八時前に、一階のフロントに、降りた。

10000チャットを、封筒に入れて、タンブとして、渡すことにした。

日本円にして、千円であるが、この額を決めるのも、悩んだ。

最初は、三万チャットだったが、次第に冷静になり、一万チャットに、落ち着いた。

 

社長がフロントにいた。

挨拶して、タンブンを渡すと、即座に、中身を確認した。

それも、驚きだった。

封筒に入れたものを、寺に布施するのであるから、見るという行為に、アレッと、思った。

 

そして、車を用意してあり、八時半に出発すると、言う。

寺に行くものだとばかり、思っていたが、運転手もつけてある、云々と言う。

すると、昨日の、若い僧侶が、ホテルに入って来た。

 

一緒に行くのである。

八時半出発ということなので、私は、コータを起こすために、部屋に戻った。

 

寺に行かずに、直接、支援する場所に行くみたいだと、コータに伝えて、私も、出掛ける準備をした。

浴衣に、着替えた。

 

10分前に、一階に降りると、車の用意がされていた。

昨夜の日本語を話す男が、運転手と、案内役である。

寺に行く話しは無しになっていた。

 

その男が、途中で、高僧の派遣した僧侶と、落合、そこから、彼らの先導で、行くという。

 

だが、社長は、途中で、車を降りて、別の車に乗り換えて、行くことになり、チャットが必要になるから、100ドルほど、チャットを持って行った方がいいという。

しかし、私は、昨夜、更に50ドル、チャットに換えていたので、それを見せた。

 

何とも、腑に落ちない気持である。

そして、社長は、コータに、こちらの車代は、20ドルであると、言う。

コータから、20ドル必要だと、言われて、私は、社長に、20ドルを渡した。

 

そして、出発である。

その時、社長が、ペットボトルの水を二本、パンの袋を二つ、渡した。

親切であると、理解した。

 

私達は、朝食を食べていない。

ちなみに、ホテル代金は、朝食つきの料金である。

 

寺に行くことなく、現場に向かうことになって、出発した。

 

川沿いの道を通り、橋を渡って、ヤンゴン市内から、郊外へ出た。

一時間近く走ったと思う。

大きな通りに出て、そこから、左の道に入った時、車が止まった。

男が、電話を掛け始めた。

そして、また、大きな通りに戻った。

 

その通りに停車して、暫く過ごした。

合流する僧侶との、連絡をしていると、思うが・・・

 

屋台の物売りが、並んでいる。

バスが停車して、人々が混雑している。

一度、車から降りて、辺りを見回した。

 

実に殺風景な風景である。

日本の秋枯れのようである。

後で、その辺り一帯も、サイクロンにより、すべてなぎ倒されたと知る。

 

漸く、運転手件案内の男が、車に戻り、出発した。

といっても、戻った道を、また進んだ。

つまり、最初の通りを左に曲がった、道であり、サイクロンの被害の多かった場所である。

 

そして、少し進むと、男が、この辺りで、しましょうという。

変だなーと、思う。

 

合流する僧侶は、いないし、この辺りで、やりましょうと言う。

あらかじめ、支援する場所を、高僧が指定したのではないか。

 

ところが、その村の寺に支援物資を持って向かうと、何とも段取りがいい。

待ってましたという感じである。

 

そこの、僧侶に挨拶して、男から、説明を受けた。

ここで、お坊さんに、村の子供達に集まって貰うにしましたから、皆、来ます。そして、静かに、配ることが出来ます。今、皆に、連絡させていますと、言う。

 

私達は、その寺の中で、支援するものだと、支援物資の荷物を解いて、衣服を出した。

そして、待った。

 

すると、村の人、男三人がやって来た。

何やら、話している。

 

すると、男が、村の人の家に、子供達を集めて、そこで、配りますと言う。

段取りが、悪いのである。

寺の中で、配るはずだった。

 

私達は、もう一度、バッグに、物を入れ直して、それを村の人が運ぶ。

 

寺から、少し離れた、家である。

その一帯は、荒れ野原である。

家も、少ない。

田圃の刈り取った後のままで、緑が無い風景。

 

村の人が、話すことを、若い僧侶が、英語で通訳してくれる。

それを、私は、コータから聞いた。

 

この辺、一帯は、サイクロンで、すべて飛ばされてしまった。何も無い。今も、そのままである。

 

村の村長のような人の家に、到着して、荷物を再度、開けた。

そして、サイズ別に、並べて、子供達を待った。

すると、一人、二人と、やって来た。

本当に、子供達が来るのかと、思ったが、集うと、30名ほどの、子供達になった。

着ている物は、皆、汚れている。

確かに、何も無い風情である。

 

赤ん坊を抱いた女も、三人ほど来た。

そして、村の大人も、数名いる。

 

子供達を静かにさせて、一人一人に、私は、サイズの合う衣服を渡した。

次々と、子供が、前に来る。

確かに、一人一人に、手渡した。そして、赤ん坊を抱いた女達にも、幼児用のものを、渡し、更に、彼女達にも、必要な物を渡した。

大人物も、少し持っていたので、男達にも、渡すことが出来た。

 

一時間近くかかったようである。

私は、汗だくになった。

 

いよいよ、全員に渡し終えると、私に、家の奥さんが、飲み物をと、勧めてくれた。

男達数名もいて、私をねぎらう。

ふっと、家の中を見ると、子供達が、全員集合している。

静かなので、私は、皆、戻ったと、思ったが、皆、静かに、事の過ぎるのを、待っていたのだ。

 

男が、写真を撮りましょうと言う。

そして、子供達を、家の前に並ばせた。

 

段取りがいい。

確かに、何の問題もなく、支援物資を、配ることが出来た。これは、幸いであった。

 

写真を撮るためにも、子供達は、静粛にしていた。

何枚も、撮った。

若い僧侶も、ここぞとばかりに、写真を撮っている。

 

この若い僧侶は、家に着くと、村人に、何やら説教をした。

真剣な表情で、何やら、村人に話し掛け、それを、村人も、神妙に聞いていた。

 

今回の支援について、自分の関与を話しているようだった。

言葉が、解らないので、そのように、感じた。

 

子供達が、それぞれ、解散して、私は、持て成しのお茶を、飲んだ。

 

その家の、奥さんと、おばあさんにも、何がしかの衣類を渡した。

 

一人の村人の男が、私に感謝を示して、手の甲に、口付けした。

そして、何やら、トクトクと、話した。

ありがとう、ありがとうと、言うように聞えた。

決して、悪い気分ではなかった。

 

一度、寺の方に戻ると、寺の僧侶が、私たちを、田圃の中で待っていた。

私は、僧侶に、タンブンとして、5000チャットを渡した。

 

村の男達も、私たちを、見送りに来た。

車が走り始めるまで、見送ってくれた。