第1話
バリ島は、インドネシアの中でも、特別な島である。
それは、インドネシアは、世界最大のイスラム国家であるということ。
その中で、バリ島は、地場の信仰形態と、ヒンドゥーを混合した、バリヒンドゥーであるからだ。
およそ、二万の島を抱えるインドネシアでは、最も、特徴的な島である。
バリ島の、原住民を、バリニーズとして、呼び、その他は、ジャワ、スマトラ、隣の島、ロクボク島などから、来た人々による。
更に、ホテル経営者などは、実に、幅広く、欧米人、オーストラリア人、日本人、韓国人、中国人などである。
純粋バリニーズは、その精神も、実に少なくなっている現状である。
バリニーズでも、精神的には、バリニーズの伝統を捨てる者もいる。
私は、バリニーズを信頼していた。
実直で、誠意ある人々である。
だが、時の流れか、それらも、次第に、変質してゆく。当然である。多くの情報が、バリ島に入り、伝統的生き方では、生活を、口を糊してゆけなくなったのである。
更に、ゲイカルチャーなどを、見ると、最早、それらを、無視することは、出来ない。
スミニャックという、街は、ゲイタウンとして、機能しているのである。世界から、ゲイが、集う。
そして、インドネシア全土から、集う、レディボーイ達である。
強い、イスラム色の土地では、生き難いが、バリ島では、何とか、やってゆける。
レディボーイ達は、宗教を超えてしまったのである。
バリ島は、日本人には、観光地として、有名である。
神々の島という、キャッチフレーズでの、神秘的イメージを持つ。
しかし、バリ島は、神々の島でも、神秘の島でもない。
神々より、精霊、あるいは、亡霊や、化け物が多く、その芸術も、すべて、外から入ってきたものである。
バリ島の、伝統文化は、欧米人たちによって、味付けされたものである。
勿論、それを、やりこなすバリ人の、才能があってのこと。
ただ、それらが、お金のために、使用されることになると、バリ人も、抵抗しなければならない。
今回、単なる、レストランにて、ガムランと、レゴンダンスを披露しているのを、見て、愕然とした。
例えば、ホテルのディナーで、特別、企画というならば、理解するが、単なる、通りのレストランでの、ガムランと、レゴンダンスは、その、質を、低下させ、更には、見世物に、貶める。
歌舞伎を、レストランで、見せるのに、似る。
バリニーズの、誇りは、次第に、狭くなってゆく。
日本人が、日本人の、誇りというものを、意識せず、更に、そんなものは、どうでもいいと、思うようになるには、バリニーズも、変わりない。
それは、それで、時代精神と、言っておく。
私も、含めて、日本人観光客は、バリ島で、日本が、一時的に、統治していたということは、知らない。
更に、現地の人々の、食料を搾取して、憚らなかったということも、知らない。
そして、更に、戦後保証として、日本が、莫大な金額を、インドネシア、及びバリ島に、差し出したことも、知らない。
多くの、歴史的遺産保護にも、日本政府は、莫大な資金を提供している。
私は、バリ島に拘るつもりは、毛頭無い。
これから、インドネシアの各地、各島の、追悼慰霊を、行う予定である。
しかし、衣服支援をすることによって、得た、関係がある。
路上で、物売りをしている、子供達などである。
ストリートチルドレンという言い方は、少し違う。
彼らは、グループで、生活して、夜になると、生活費のために、路上に出て、手首に巻く、皮織物を売る。
1000ルピアから、10000ルピアである。
10円から、100円で、売り歩く。
うまくいけば、それで、一日、一食が食べられる。
でなければ、二三人の、収入で、一碗の、屋台の、スープ麺を食べられる。
一日、何度、食事をしているのかと、私が、9歳の、ボーイに尋ねると、一回の時も、二回の時もあると、言った。
今回は、彼らの、住む場所に行かなかったが、次回は、彼らの住む場所に出掛けてみるつもりである。
さて、今年は、二月に、バリ島にゆき、帰国して、バリ島再考の旅と、題して、旅日記を、書いた。
今回は、何故バリ島か、と、題して書くことにする。
今回は、初めて行く、サヌールのビーチでの、慰霊と、衣服支援、そして、前回と同じく、クタ地区の路上の子供達への、衣服支援と、クタでの、テロ犠牲者の、追悼慰霊を行う予定である。
すべて、計画通りに、進めることが、出来た。
今回の、同行者は、いつもの、コータと、辻友子である。
三人での、行動である。
それでは、時間の経過を、追って、書き続けることにする。
旅は、成田空港から、始まる。
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