木村天山旅日記

  悲しみを飲み込んだハ
  
平成21年6月 

 

第6話

三日目である。

私は、一日、ハノイの街を楽しみ、ゆっくりとすることにした。といっても、ホテルで、休んでいる時間が長い。

 

コータが、バッチャン村という、陶芸の村に、支援物資を持って、出掛けたいというで、許した。

 

その、バッチャン村は、陶芸で有名であり、彼が、通った高校が、有田焼で有名な土地。そこで、興味もあり、出掛けたのである。

 

朝食をとって、すぐに出掛けた。

 

私は、のんびりと、過ごした。

まず、水を買うために、やや、遠いコンビニに出掛けた。

近くでも、水は、売っているが、高いのである。

 

3000ドンの水が、ところにより、8000ドンまでの、幅がある。

 

ゆっくりと、ハノイの中心街を歩く。

人で、賑わう街である。

道端の、屋台では、多くの人が、食べている。

その一つ一つを、興味深く見て回る。

 

東南アジアでは、多くの人、屋台で、飯を食うのである。

それは、実に、安い値段である。

毎日のことであるから、安い値段だから、食べられるのである。

 

だが、旅行者は、注意しなければならない。

それは、水である。

すべて、現地の水で洗う。それが、危ない。

 

付け合せの、野菜は、現地の水で洗うので、結果、下痢になったり、酷い場合は、食中りであり、もっと、酷くなると、食中毒である。

 

コーヒーなどは、一度沸騰させたものなので、安全である。

 

要するに、生のままの野菜を、現地の水で洗うという行為が、一番危険なのである。

 

果物も、現地の水で、洗われると、危ない。

だから、出来るだけ、買う場合は、その場で、切ったものを、買う。

 

魚介類も、美味しいが、屋台により、危険度が増す。

一度、煮たものを、焼いたりするのはいいが、ただ、焼いたものは、危ない。

 

熱いスープの麺類も、食中りすることがある。

それも、生野菜である。

麺の中に、生野菜を入れる習慣がある。半生の野菜は、怖い。

 

コンビニが、なかなか見つからない。

確か、この辺だったと思い、行きつ戻りつした。

結果、コンビニの玄関の看板工事が行われて、見逃していた。

 

買い物は、駄目かと、思いきや、おばさんが入ったので、私も、一緒に、急いで入った。

 

持てる限り、水を買った。

そして、元の来た道を、ゆっくりと、戻った。

 

道は、複雑である。

それでも、私は、中小路に入り、方向だけは、間違いないと、歩いた。

すると、大聖堂の横に出た。

 

カトリック教会である。

フランス統治時代からのものである。

いかにも、古めかしい。

せっかくだからと、中に入ろうとしたが、どこの扉も、閉まっていた。

 

フランス統治時代も、矢張り、カトリック布教が前提だった。

今では、カトリック信者も、多い。

 

私は、教会前の、一軒のコーヒー店に腰を下ろした。

ベトナムコーヒーを注文する。

 

戦争を忘れるのはむずかしい。いつ俺の心は安らぐのか。戦争の記憶という檻から、いつ俺の心は開放されるのか。人間の苦しみと楽しみ、醜さと美しさ、そして何よりも哀しさ・・・

戦争が俺の心に刻印した記憶の総体は、十年かかっても二十年たっても消えはしないだろう、おそらくは永遠に。これからも俺は夢とうつつの境界のどこかに棲むのだ。その境界に横たわるナイフの刃先に棲むのだ。

戦争で失われた年月は、誰の責任に帰することもできない。もちろん俺の責任にもだ。俺が確実に知っているのは、俺が生きているということと、これから自分ひとりで生きるしかないということだけだ。新しい生活。ヴェトナムの新しい時代。俺は生きる。生きのびてみせる。

戦争の悲しみ バオ・ニン

 

ハノイの街は、戦争でないということだけで、平和だった。

なんでもないことが、実に貴く思われる。

鶏の肉を売るおばさんが、コーヒー店の前に来て、声を掛けると、女主人が、バケツを持って出た。

 

そして、肉を選んでいる。

選ばれた肉は、塩でもまれて、洗われた。

何度か、それが繰り返される。

そして、立ち話である。

 

教会の鐘が鳴る。

正午である。

 

古めかしい、鐘の音。

実に、平和である。

 

アメリカ軍は、1965年、北ベトナム南半部への、継続爆撃を開始した。

そして、次第に、爆撃攻撃を、ハノイ首都圏を含む、北方へ広げた。

72年末、戦略爆撃機B52の大編成によるハノイ都心の猛撃を行って、多くの市民を死傷させた。

北ベトナム軍は、若いOLまでもが、ライフル、対機銃で、米軍機を狙うという、全民武装攻敵体制と、ソ連対空ミサイルSAMで、首都を守り抜いた。

 

日本の戦時中も、女子の訓練があったが、それを、ベトナムでは、実践したということである。

皆で、守り抜いたというから、凄まじいことである。

 

その生き残りの人々が、今も、ハノイにいるのである。

 

大聖堂の鐘の音を、聞きつつ、私は、ベトナム戦争に思いを馳せた。

今、人々は、平和を享受しているが、その享受の裏には、強い意志があると思うと、なんとも、襟を正される。

 

ところで、ハノイの街の、至るところに、ある建物がある。

それは、ほとんど、目立たない。

英霊を奉る、廟である。

 

最初の日の朝、コーターと、歩いて、中小路に入って、突き当たった所に、それが、あった。最初、何なのか、分からない。

よく見ると、人の名前が、壁に刻まれていた。

そして、写真が置かれている、所もあった。

 

それから、注意して、見ると、それが、至る所にある。

ホテルから、1分ほどの、物売りの店が並ぶ場所にもあった。

 

即座に中に入ると、おじさんが、出て来て、解説してくれた。

この付近の、インドシナ戦争で亡くなった人たちであるとのこと。

 

それぞれの、町内で、それぞれが、英霊を奉る廟を、持っていると、判断した。

 

大聖堂から、水を持ってホテルに、戻る道に、それが、また、あった。

その中に入ってみた。

 

漢字で、英霊と、書かれてあるので、中国系の寺院なのであろうか。

御簾が掛けられてあり、その奥を覗いたが、扉が閉まっていた。

 

その前で、黙祷した。

 

ベトナムを守り抜いた人々。

英雄である。

そこに、悲しみを飲み込んだハノイが、あった。